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 【海賊?】 倭寇 【貿易商?】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 13:12:09 ID:0vq06EOI0
その正体についていろいろと不明な点も多い倭寇について語りましょう。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 14:07:32 ID:VgP4iqZ70
いろんなものがひっくるめられているからね。

倭寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 23:44:31 ID:B+R3jKUe0
前期に高麗を荒らし回っていた連中と、
後期に明の沿岸で活動していた連中は、
成分がかなり違っているだろう。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 23:58:47 ID:LfDeucm30
王直の直は正直の直

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 11:40:44 ID:KSFIgU820
明朝、特に嘉靖年間の倭寇はかなり有名だけど、
もっと前の前期、元朝の頃の倭寇ってのは実際どんな感じだったんだろう?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 18:40:43 ID:5Ltc1Xuy0
元朝の頃と言うと南北朝時代か。
多分、九州の悪党と商人が結託してただろう。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 23:55:52 ID:yUsqo25Z0
朝鮮半島の方へは、どうも西国大名がちょっと関与して、
兵を出してたっぽいしね。

いろんな連中がごっちゃになっていたと思うよ、倭寇って。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 11:22:10 ID:P3VNapWT0
高麗内部の勢力が引き入れたんだと思うよ。
元朝末期頃の高麗ってぐだぐだだったみたいだし。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/07(土) 23:24:02 ID:WbfxHZ9m0
西日本の大名の中には、倭寇の元締め的な立場にあった者もいたかもね。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 23:35:23 ID:WhgwOPvY0
大内、少弐、宗、松浦、島津

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 07:42:50 ID:9Euc/kpT0
嘉靖年間の倭寇騒動に、日本人は何人参加していたか?

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:32:56 ID:HMpGfbo00
↓明側からしたら、倭寇の巨大バージョンって感じだったのかな

【日明戦争】文禄・慶長の役【万暦役】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1182128954/

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 01:54:47 ID:DEr/WGH70
秀吉自体が大倭寇になった感じじゃない?

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/14(火) 12:52:01 ID:baelLwuu0
豊臣秀吉は実は中国人だという伝説が明にあったよね。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 00:51:33 ID:GtRVHSHrO
ネラーが、何でもひっくるめて在日判定してるみたいに
何でもかんでも和冦って判定してたんだろな。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 10:49:30 ID:3p1HrUPL0
倭寇をやる側だって、「アイアムザパニーズ」ってやっていたんだろう。
凶暴な倭人と名乗れば、それなりに威嚇効果もあっただろうし。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 01:38:38 ID:e0/CaQ/p0
実際、ちょんまげを真似ていたそうだからね。
明の官の側だって、日本人ということにしておけば、
いろいろと処理しやすかっただろうし。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 23:58:43 ID:ZKzpjcnG0
少林寺の坊さんが倭寇退治をしたって伝説があるよね。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 10:24:59 ID:5YZjLQHH0
8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 09:52:12 ID:x/hU9IuZ0
少林寺守護神・緊那羅王
 『少林寺志』によると、緊那羅は元末明初の少林寺に実在した僧で、俗名を許那羅という。
 普段は寺の炊事僧として働いており、誰の話題に上る事もないような目立たぬ存在だった。しかし元朝末期に起こった農民蜂
起軍である紅巾軍が、大挙して少林寺に攻め入り寺の財物を略奪しようとした時に、寺の衆僧で誰も敵う者がいないのを聞くと
棍を手にして飛び出し、見事これを撃退した。
 後世、観音菩薩の化身・緊那羅王として神化され、現在でも当地の武術家によって「少林武術の守護神」もしくは「山門顕武
第一人」として奉られている。

月空和尚、倭寇を撃退す
 西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、中国南方沿岸部に出没しては猛威を振るってい
た倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に壊滅的な打撃を与えた。しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵
らも最後には全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、月空和尚のための搭が今で
も残っている。

20 :名無的発言者:2007/08/19(日) 19:35:20 ID:TX0FDKUF0

16世紀の倭寇の特色は、構成員の大部分が中国人で占められていたことである
。真倭といわれた日本人は10〜20%、偽倭、仮倭、装倭とよばれた中国人が
主力であった。

ネタ元 逆説の日本史9 鉄砲伝来と倭寇の謎 P83

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 15:31:47 ID:4E5/jtYq0
嘉靖年間の倭寇騒動って、住民が城の外へ避難して、
空き城を倭寇が荒らし回ったって感じだったのかな?



22 :名無的発言者:2007/08/27(月) 20:42:53 ID:NlSZcsmL0

16世紀の倭寇の大部分は中国人だった。ではなぜそうなったのかと言うと
当時の中国を支配していた明王朝が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出した

からだ。これにより貿易業者は自動的に犯罪者にされてしまった。これは福
建省や広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ食べていけない省に

とっては死活問題だった。彼らはやむなく官憲の目を逃れて密貿易をするか
武装して官憲に抵抗した。これが後期倭寇の正体である。ちなみに中国の歴

史家の中には『倭寇は全て日本人だ。中国人はいない』と主張するものもい
るが彼らの中で【海禁】のあと中国の貿易業者がどうしたのか説明出来るも

のはいない。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 22:29:02 ID:m6oL+4+k0
沿岸部の官憲は結構倭寇とも馴れ合っていたと思うな。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 10:58:39 ID:8T3PfqpW0
“海禁”与“倭寇”(1)
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/39.shtml

“海禁”与“倭寇”(2)
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/40.shtml

25 :名無的発言者:2007/08/30(木) 19:33:39 ID:YmOEU8dX0
>>24

・・・・全部中国語・・・・要点だけでも和訳してくんない

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 21:23:13 ID:3SaLxjLP0
(1)
経済のグローバル化とともに、海禁政策は時代に合わなくなってきた。
もともと朝貢貿易やってたんだけど、寧波事件で日本との貿易が制限された。
日本との貿易は儲かるので、沿海の人は勝手に商売をはじめた。
官が取り締まろうとすると、武装して対抗した。で、倭患と呼ばれた。

(2)
そもそも倭寇というのは、辞書では日本の海賊って書かれてるけど、日本人は少なかった。
ほとんど中国の商人とかだった。じゃあなんで倭寇と言われてるかというと、
確かに少数ながら日本人がいたし、倭寇側も嘘の情報流して取締りを混乱させようとしていたし、
取り締まる側でも日本人だとしたほうが功績になるから、そう報告していた。
王直は海禁解除を要求してたんだけど、首斬られちった。王直死後、倭寇はますますひどくなった。
それから、倭寇はみんな中国沿海の人だとか、海禁の弊害とかが言われるようになった。
政策が転換されてから、倭寇はいなくなり、海上貿易は新たな段階に入った。



よくわからん。あとは中国語わかる人よろしく。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 23:30:51 ID:QAxxoqJG0
そもそも東シナ海の海上を生活の場として、
日本と中国沿岸、東南アジアなんかを往来していた人たちの中には、
日本人とも中国人とも呼べないような人たちだっていただろうしなあ。

28 :名無的発言者:2007/09/01(土) 22:11:20 ID:22yOEMiG0
>>26
ありがとうございます。反日でもなければ親日でもない客観的な記述だと言うことは分かりました。

>>27

そうですね。むかしは国籍なんてなかったしそもそも一般庶民は自分の国の名前も
民族の名前も知りませんでした。18世紀、日本からシベリアに漂流した日本人が

『お前はどこの国から来た』と聞かれ『オレは江戸から来た』と答えたそうです。
彼は自分の住んでいる国が日本と言う名前なのを知らなかったんですね。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 22:46:43 ID:nRxV66/60
九州あたりの倭寇活動に参加している人たちにとっては、
上方の京都人なんかよりは、
江南沿岸の中国人の方が親近感があったかも知れないね。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 22:47:37 ID:nRxV66/60
つまりは無国籍地帯だったとも言えるわけか。

31 :名無的発言者:2007/09/02(日) 11:24:58 ID:q2JtQBQg0

それから当時は海賊と商船と軍船のあいだに区別はほとんど無かった。
海上には警察も裁判所もないから海は無法地帯でありそこに出る船は自衛のため

武装していた。そうした武装商船は商売が上手くいかなければ即海賊になった。
そして領主の要請があればいくさにも出た。この点当時の武士と似ていた。

当時の武士は平和な時は農場経営をし、いくさの時は戦い、さらにいくさでは
略奪暴行は当たり前だった。そしてこの略奪品が大事な収入源だった。当時の

屏風絵には逃亡する敵方の女性を捕らえる為わざわざ川べりに小船を待機させ
ておく大名が描かれている。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 15:59:07 ID:ToOeICBS0
日本国内の海賊、例えば村上水軍ような連中だって、
通行料を払った船には、航路の案内や護衛をつけるようなサービスをしたけど、
通行料を払わない船は、容赦なく襲っていたようだしね。

33 :名無的発言者:2007/09/03(月) 21:08:19 ID:ol84ofhR0
イギリスの海軍も元をたどれば海賊だそうだ。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 21:47:53 ID:Pwy1vvHN0
日本には琵琶湖に湖賊なんてのもいたけど、
中国の長江とか太湖あたりで活動していた連中は、
どれぐらいの勢力があったんだろうか?

35 :名無的発言者:2007/09/04(火) 20:23:51 ID:D2ABrZhA0

正確な規模は解からないがかなり大きかったようだ。分かっているのは彼らは必
ずしも民衆から嫌われていなかったと言うことだ。なぜ民衆から嫌われないのか

と言うと中国の税制を見ていかなければならない。そもそも中国と言うのは基本
的に大陸国家であり広大な領土の割には海岸線が少ない。よって塩が取れるとこ

ろは限られてくる。この限られた製塩地を押さえ塩を官営にし高値で売れば莫大
な利益が上がる。そして人間は塩が無ければ生きていけないからどんな高値でも

買う。それでも原価の2,3倍程度なら民衆も我慢して買うだろう。しかし役人
の腐敗では世界的に有名な中国官僚の経営、値段は5倍10倍にも跳ね上がり、

さらに塩に砂や泥を混ぜて水増しするのも日常茶判事そこで官に抵抗する湖賊、
官の呼称では塩賊が登場する。彼らは官の半額程度の値段で良質な塩を売った。

官の半額でも原価の4,5倍だから利益は莫大だ。こうして湖賊ないしは塩賊は
大勢力を誇った。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 23:31:36 ID:mys9i4cT0
中国の社会は昔から、幇会組織が重要な位置を占めていたからね。
官がほとんど悪に近い存在なので、庶民の視点から見れば、
ヤクザ的な幇会組織も必ずしも悪とは限らない。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 10:51:54 ID:Nx5zhgSz0
>>35
腐敗の経営で5倍に跳ね上がったとは少々言いすぎ。
そりゃ塩の専売で私腹を満たした官僚いくらでも居るだろうが、
やはり塩専売は暦朝歴代の貴重な財源で、多くは政府に吸い取られた。
例えば今日本の煙草税を見てみろ、7割以上が税だといわれている。
ああいうものから税をたくさんとるものだ、政府は。


38 :名無的発言者:2007/09/07(金) 21:12:59 ID:s7ajO2eF0

まあ塩税そのものは当時としては良税だった。『どこが良税だ。金持ちも貧乏人
も同じだけ税を取るなんて』と言われるかもしれないが、そもそも近代以前は身

分の高い者は税金を払わなかった。それも税金をごまかして払わなかったのでは
なく合法的に税金を払わなくてもいい特権を持っていた。ところが塩税は王侯貴

族だろうと百姓町人だろうと関係なく塩を買う度に払うことになる。あくまでも
当時としてはだが良い税制だったんだ。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:43:15 ID:q9Sdwdtw0
高句麗の広開土王碑に、倭が新羅とかに攻めて来たって記述があるけど、
古代にも倭寇に類するような勢力の活動があったのかな?


40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:54:11 ID:aXxA91cY0
半島南部に、日本の勢力が、統治まで至らなくても、
それなりの強い影響力を持っていたことは、多分確実。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 12:52:59 ID:hlfAe/gw0
鉄の産地があったらしいね。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/18(日) 15:21:23 ID:+mu+ja6R0
九州には中国人町みたいなものがかなりあったのだろうか?

43 :名無的発言者:2007/12/31(月) 18:55:18 ID:T0VA/2Xw0

16世紀の倭寇の大部分は中国人だった。ではなぜそうなったのかと言うと当
時の中国を支配していた明王朝が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出したから

だ。これにより貿易業者は自動的に犯罪者にされてしまった。これは福建省や
広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ食べていけない省にとっては

死活問題だった。彼らはやむなく官憲の目を逃れて密貿易をするか武装して官
憲に抵抗した。これが後期倭寇の正体である。ちなみに中国の歴史家の中には

『倭寇は全て日本人だ。中国人はいない』と主張するものもいるが彼らの中で
【海禁】のあと中国の貿易業者がどうしたのか説明出来るものはいない。

ネタ元 逆説の日本史9 P83〜P212 第二章 海と倭寇の歴史編

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 23:06:42 ID:JzjeDMCe0
清の初めなんか、鄭成功に対する戦略もあって、
沿岸部の住民を全員強制移住させてしまう、極端なことしたしな。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/03(木) 23:55:53 ID:a2faBgBI0
<南海1号>海底に眠る財宝はまだある!今度は明代の沈没船「2号」、来年引き揚げか?―香港紙

2007年12月29日、中国のニュースサイト「中国新聞網」は南宋時代の沈没船「南海1号」が前日28日の午後4時頃、無事に
新居となる広東省陽江市にある「海のシルクロード博物館」内の巨大プール「水晶宮」に移されたと報道。

今から約800年前の貿易商船「南海1号」は、ほぼ完璧な姿で海底に沈んでいたため、船内には数万点にもおよぶ貴重な
文物が残されているとされ、その価値は3000億ドルに上るとの専門家の意見もあるほど。

記事ではさらに香港紙「文匯報」の報道として、今回の「南海1号」引き揚げ成功を受けて、当局は明の万暦帝時代(1573年
〜1620年)に沈没した船を「南海2号」と名づけ、その引き揚げを来年中旬に計画していると伝えた。「南海2号」は船体長
約20m、船体はほぼ原型を保っており、船内には数万点の文物が残されている可能性が高いとのこと。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g14183.html

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 22:32:50 ID:TO029vCP0
倭寇関係の船だったら、銀を積んでいる可能性が高いんじゃない?

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 00:26:35 ID:lMuH1fWK0
南海2号と名づけられているということは、
南海、すなわち南シナ海の海底にある沈没船ということ。

日本ではなく、東南アジアの方との交易船じゃないかな?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 15:41:25 ID:UFXMFAME0
高麗末期から朝鮮前期にかけて、朝鮮や山東を荒らしていた連中は、
済州島に拠点を構えていたらしいな。

騎馬隊とかあったようだし、
明らかに日本人と違う。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:59:41 ID:whPW3KYK0
高麗末期の済州島は、モンゴルに没収されて、直轄の牧場が置かれていたらしい。
済州島から出撃した騎馬軍団の倭寇って、多分モンゴル人だよ。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 13:53:19 ID:RiU72uz70
阿只抜都なる者率いる倭寇の騎馬軍団を撃ち破った英雄となり、
後に朝鮮を建国したのが李成桂。


阿只抜都はどう考えても日本人の名前ではない。


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 23:55:37 ID:1hshPL3p0
済州島のモンゴル人の親分と騎馬軍団に、
対馬や松浦の日本人も加担、

ってことはないか。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 23:23:48 ID:GFbGF8y10
北九州の海賊とモンゴル人って敵対しているんじゃなかったっけ?

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:13:06 ID:tkkbL20w0
利害が一致さえすれば、手を組むもんさ。

54 :中国人の英雄:2008/02/08(金) 01:40:01 ID:36PI7dOk0
靖国で参拝老人襲った中国人 現地ネット上で「英雄視」 日の丸奪って脚で踏みつける
掲示板では「断固支持」との声が圧倒的だ
 事件が発生したのは2008年1月15日午前11時25分ごろ。仕事で来日していたという中国人容疑者(43)が、靖国神社で80代の男性が持っていた日の丸(縦1メートル、横1.5メートル)を奪って脚で踏みつけ、さおを折った。
さらに、これを止めに入った40代の男性を殴るなどしたとして、警視庁麹町署に暴行と器物損壊の現行犯で逮捕された。調べに対しては黙秘した、という。
容疑者は自動車部品メーカーの副総経理(副社長)を務めたこともあり、自動車業界では影響力が大きい人物なのだという。
このような「重要人物」が、靖国神社で80歳の老人から日の丸を奪ってさおを折るという犯行に及んだというだけでも驚きだが、さらに驚くべきことに、この行為を「英雄的」などとして称賛する声が相次いでいるのだ。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 20:36:17 ID:Nr3LtDFb0
日本って海に囲まれているわりに、
安宅船みたいな、外洋では役立たずの船が中心だったのな

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 22:31:35 ID:7zEdy8o/0
日本の水軍の場合、沿岸部での活動が中心だから、
浅瀬や岩礁が多く、竜骨のある外洋対応船は逆に使いにくく、
平底の安宅船、関船が中心になった。

倭寇が使っていたのは八幡船などと呼ばれるジャンク船だけど、
沿岸部での活動には不向きだったから、
瀬戸内の村上水軍なんかは用いることがなかったんだと思う。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 22:39:23 ID:DpjUUazc0
日本が統一された後に海洋国家を目指す場合、
村上水軍なんかは水軍力としてはほとんど役立たずになるだろうな

むしろ松浦党とか、島津の水軍あたりがいいか

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 13:15:09 ID:rNeDd5cb0
村上水軍は瀬戸内海に特化しすぎていたんだよ。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 19:25:40 ID:w5zWr1g+0
日本は意外と外洋航海も発達していたと思うよ。
江戸時代に鎖国したから伝わらなかっただけで。

東日本の日本海側や、奥州には中世に栄えた港町が結構あって、
普通に上方と船を往来させているし。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 00:17:27 ID:nT5BLVZz0
昔は渤海使にわざわざ船を造って送ってやった程だしな

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:51:51 ID:wgKnyAlw0
江戸時代は外洋向けの船や安宅船は建造禁止令まで出されているしね。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:08:04 ID:06Mk2bvg0
西日本、南日本の海賊が名高いけど、
東日本、北日本はどうだったんだろう?

あまり掠奪するほどの物産はなかったかも知れないけど、
それなりに水運は発達していたはず。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 02:28:19 ID:PXwfDmTu0
日本海側はつるっとしてるからあんまり海賊勢力できなさそうだな

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 15:38:53 ID:jSsQW48l0
日本の対馬でも交通が劣悪という噂の豆酘(つつ)。北は峻険な峰で塞がれ、東西は長い岬が伸びて、
南西には大韓海峡の荒波が押し寄せる暗礁だらけの海岸に囲まれた人里離れた村だ。日本の民俗学者
が中世社会が残る場所とするほどに隔絶された場所だ。この人里離れた村のある神社に直径79センチ
にもなる大きな'青銅製高麗どら'(写真)がある。普通の高麗どらの直径は30〜40センチ。

李ヤン放送通信大日本学科教授は、豆酘の高麗どらが倭寇研究に重要な糸口を提供すると考えている。
倭寇研究の最大の論点のうち、日本側の研究者たちは「倭寇=日本人」であることを立証する日本側文
献がないことにかこつけて、倭寇が高麗人と日本人の連合集団と言う主張を申し立てて来た。

「対馬豆酘多久頭魂(タクヅタマ)神社所蔵の高麗の金鼓と倭寇」という論文で李教授は、どらに刻
まれた銘文を再解釈する。どらには去る1245年製作当時刻まれた文が残っている。「禅源乙巳五月日、
晋陽府鋳成□福寺飯子一印」。「□福寺」を高麗の武臣政権の最高実力者だった崔忠献(チェ・チュ
ンホン)の願刹、昌福寺(チャンボクサ)と考えれば全体文章の解釈が可能だ。崔忠献の息子である
崔瑀(チェ・イ)が自分の願刹である禅源寺を建てた高麗高宗32年5月(1245年)、武臣政権の核心権力
機構である晋陽府で崔忠献の願刹に使うどらを作って捧げたという。

普通のどらより直径が倍以上大きい、そのように大事などらがどうして対馬の人里離れた村にあるの
か?どらが日本に伝わった1357年、追加でどらに刻まれた銘文に糸口が見える。大蔵スネダネという
人物が同僚たちの業報(ごうほう)を消滅させようとこれを奉納したという内容だ。当時、高麗と日
本両国の間にはモンゴルと高麗連合軍の日本侵攻以後、軍事・政治的緊張が高まった時期だった。
どらを高麗政府が簡単に日本に渡したはずはないだろう。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 15:39:18 ID:jSsQW48l0
あいにく、どらに追加で刻まれた銘文の日付印1357年10月18日にわずか23日先立って、倭寇たちが高
麗のお寺を最初に掠奪した記録が残っている。恭愍王の代に一番格が高いお寺だった興天寺侵奪だっ
た。昌福寺にあったどらが武臣政権の崩壊で国家に没収され、興天寺に移されてから倭寇たちが掠奪
し、対馬に持って行ったということだ。

大蔵スネダネは当時、北九州の実力者だった少弐頼尚(しょうに・よりひさ)旗下にあった者だった。
結局、倭寇が対馬に限定して活動した無意図的な海賊ではなく少弐頼尚の統制下に対馬を経て計画的
に侵攻した集団だった、という結論に至ることになる。

李教授の論文は今月19日、釜山大で開かれた韓国中世史学会と釜山大民族文化研究所が共同主催した
「中世韓日関係史の中の倭寇」主題の学術大会で発表された。

釜山日報(韓国語)「倭寇、計画的に韓半島侵攻した」対馬豆酘神社の「高麗どら」
http://www.busanilbo.com/news2000/html/2008/0222/060020080222.1025102605.html

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 22:06:17 ID:5MzlSs9n0
>>62 「伊豆水軍物語」でも読んでくれ。面白いよ。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 23:57:24 ID:y95WSoeE0
近衛前久なんか、海路で薩摩に行ったりしているな。
いろいろ航路が成立していたんだろう。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/03(月) 23:42:51 ID:HGktECxK0
種子島の鉄砲も、いち早く堺に伝わっているからね。
堺から坊津あたりの港に航路が通っていたんだと思う。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 22:17:38 ID:m0XK3bbQ0
種子島は元々鉄の産地だったからね。
だから、刀の生産が盛んな堺の商人が行き来していた。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 12:05:23 ID:emVa8bCF0
堺から太平洋に出て九州に出る場合、どこにも寄航せずに直接行けたのかな?
四国のどっかに立ち寄りそうなものだけど。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 13:05:05 ID:AVlMERq+0
>>70
だいたい阿波の湊に立ち寄ったあと、一気に土佐沖を通って日向大隈まで行くらしい。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 23:17:12 ID:j+0KaXRd0
土佐の浦戸も中世は港町として栄えたって聞くけど、
堺から南九州へ向かう船の中継港にはならなかったんだろうか。

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