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もし関羽以外の者が荊州を守っていたら?

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 09:44:56 ID:sifnyPMa0

 劉備がもし関羽以外の者に荊州を任せていれば、荊州を失わずに済んだだろうか?
 それともやはり呉に荊州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 09:46:16 ID:xRy6bexu0
そもそも劉備陣営に、関羽以外に、
荊州を任せられるほどの人物がいたかどうかだな。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 10:55:32 ID:Q6oeraLcO
孔明しかいないが

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:30:46 ID:vh7XIAOc0
>>2
張飛がいる。
信用度も関羽と同等だし(後に外戚になるから建前上は関羽以上か)軍を率いた実績も後世から見たら関羽以上。
あと何気に土地を治める才覚も悪くは無かったみたいだね。
士大夫に対しては腰が低かったので結構上手くいったかもしれんw
結局、劉備は張飛はずっと手元に置くという選択をしたわけだけど・・・

>>3
諸葛亮が実績で頭角を現すのは入蜀以降で、はっきり言って30才そこらのぺーぺーに人が付いて行くは思えん。魏延もしかり。
入蜀時に任せられるのは関張の2択で、その後漢中王僭称時の人事で変えられるとしても4択。

@関羽・・・信用、実績、名声文句なしで留任
A張飛・・・同上だが手元に残したい
B馬超・・・名声は匹敵するが信用度は疑問だし、涼州専用の駒
C魏延・・・大抜擢で漢中

漢中は独自に侵攻することないので、ほぼ防衛時の専門だけど、
荊州は独自で侵攻することもあれば防衛もあるだろうし、一番重要なのは呉との力関係。これらを満たす人が要る。
結局消去法的に関羽しかいなかったと思うよ。
あえて言えば、代役となりうるのは張飛だけ(その場合、関羽はずっと劉備の手元)。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:35:32 ID:vbVBDhAeO
諸葛亮が守ればええんや。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:38:58 ID:Nca4cnyZ0
信用度だとしたら麋兄弟が関張に次ぐくらいなんかね?

麋竺に権限与えて荊州閥の将軍に輔佐させるとか。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:47:49 ID:6Dvzb71r0
じゃあ、劉備が荊州に残る。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:51:12 ID:ScFi1TyL0
無理だけどそれがいちばん

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 11:51:31 ID:xbWIGx4V0
刑州で関羽の補佐に諸葛亮がついてればたぶん大丈夫だった
尊大な関羽も諸葛亮の言うことなら聞くし、諸葛亮も、関羽の機嫌の取り方みたいなのをよくわかっていた

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:05:38 ID:5m12Gejk0
張飛だと、士大夫に格下に思われんか?
いや、関羽の様に見下すより、その方が上手くいく?

麋兄弟の弟の裏切りは、関羽と折り合いが悪かったからだよな。
悪い選択ではないかもしれない。

補佐は馬良になるだろうが、蜀はやはり駒が足りん。
…龐統の死とか痛いな…

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:28:23 ID:vqvr8nCK0
名実共に関羽以外に適任が思いつかない
麋芳士仁は陣中に留め置いて、廖化や馬良を江陵の守備に置く事は出来なかったのだろうか?


12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:36:39 ID:YI8XawTI0
関羽でなければ、(+諸葛亮も難しそう・・)

劉封+張飛(ついでに黄忠もつけてやるか)
関羽は上庸から漢中・荊州の支援。
劉備の養子・劉封なら名前負けもする可能性が少ない。
劉封も関羽・張飛に認められようと奮起するだろう。

後継者問題で禍根を残すかもしれないがこれがベストじゃない?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:40:26 ID:QZI8kqiB0
>>4
馬超は無理でしょ、荊州人士が納得しない。能力や信用度でいったら黄権も
候補だけど、こちらは関羽に変えるには名前に重みが足りないか。

>>11
失態があったので入れ替えて留守にしたという話がありますけどね。罰として
留守にするという人事は様々な意味で問題があるとおもうが。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 12:45:02 ID:SRRU28XjO
魏延に任せろ

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 13:55:29 ID:49fsneDn0
関羽は、部下とか自分より立場が下な連中には優しく接し、可愛がったけれど、
目上とか同じ立場の連中にはえばりまくって「俺は劉備以外には頭下げねーぜ!」
気質だったから、援軍もらった時に「余計なことすんじゃねーよ糞が!」
みたいなこと言っちゃったりして孤立したんだそうな

関羽じゃなけりゃ荊州は守れてたかもな


16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:07:08 ID:n5QE51ckO
関羽に荊州統治は適任だと思うけど、きちんと補佐できる人材をつけるべきだった。
人材難でもないのになんで王甫とか周倉とかしかつけてやらなかったのか…
やっぱり関羽のプライドがあったのかな。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:27:36 ID:5m12Gejk0
・・・周倉は、釣りだよな?

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:27:40 ID:d8eFe5UjO
別に関羽が悪かったのではなく、劉備側の外交ミスだと思うが。
信義を守って呉との交誼を固めていれば奪われなかっただろう。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 15:30:57 ID:49fsneDn0
>>17
釣りだろう。若しくはツッコミ待ち。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 17:46:03 ID:WW010MLp0
なんかこの板もすっかり三国志関連のスレだらけになったな…

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 17:46:17 ID:vh7XIAOc0
>>18
外交ミスを詳しく
知る限りミスといえば劉備のではなく、関羽が孫権との姻戚話を蹴ったことくらいしか知らん。

・・・

荊州の領土半分明け渡した時点で呉は「盟友」ではなく「仮想敵」。
呉からしたら江陵は絶対に譲れない土地ということくらいは関羽も認識してたはず。
信義とか交誼とか、そういうレベルの話は通じないでしょ。
現に劉備自身が乗っ取りを成功させて、その時代に甘い事は通用しないと知らしめてる訳だし。

つまり劉備・関羽からすると呂蒙(陸遜)に如何にして侵攻させないかの抑止力が第一であり、
次に侵攻してきた時にどう対応するかが問題であって、「関係をしっかり持てば呉は攻めてこない」という前提が間違ってると思う。
少なくとも江陵が呉の地になるまではね。


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 19:57:15 ID:7gR6jwbVO
鳳統が孔明を妬んで、勝手に死んだのが悪い!
これによって、孔明が関羽から劉備の元へ移動した。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:03:42 ID:vh7XIAOc0
>>10
関羽の留守を預かった人達は呂蒙に対して戦意を見せなかったようだし、関羽は総スカン喰らってたと思われ。
公安江陵だけでも関羽が退却するまで踏ん張る事が出来たら、零陵武陵は取られるけど蜀への連絡路は絶たれないから別の話になったと思う。
まぁ、南郡だけだと荊州という飛び地で対呉対魏に対して勢力を維持できないだろうから、荊州方面からの魏侵攻路は無くなるだろうけどね・・・

張飛なら留守が無抵抗で降伏という、総スカンを喰らうとは思わない。



・・・結局のところ関羽個人の問題より、呂蒙という相手が悪すぎたのが一番の敗因だね。
呂蒙は215年といい217年といい、電撃作戦が上手すぎる。
騙し打ちとはいえ、相手に対応を許さずキレイに目的を果たしてるのは完璧・・・

個人的には誰が守っていたかという戦術レベルより、どうやれば呉に攻めさせない気を持たせられたかという戦略レベルの対応が必要だったと思う。
外交とは「○○はしてくれると思う(願望)」じゃなくて「○○はこうせざるを得ない」だから、呉が背後を突かないだけのメリットを与える必要がある。
劉備としては荊州は魏への牽制路/侵攻路だから渡せない、孫権としては荊州は(赤壁の報酬だから)本来呉が持ちえた土地だから欲しい。
劉備が出来ることは・・・
@襄陽ハン城を取ったら返します手形(この場合関羽は襄陽〜上庸〜漢中〜成都となりますます孤立する)
A関羽に北上を厳禁してその間に対呉への工作。逆に言うと呉が攻めて来ないという確信(工作)ができるまで北上させない。

前者の場合は魏に近すぎることから全力で叩かれるだろうし、援軍はほぼ期待できない。
後者の場合は呂蒙の病気がそれに当たるので、「病気なったから守備兵を前線に送った」が「病気になったのでほぼ全力で北上した」
になるだけで史実と同じ道になりそう・・・

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 01:41:33 ID:N5gag23sO
関羽以外なら趙雲

25 :18:2007/09/09(日) 01:46:30 ID:xEOFZvSaO
>>21
遅レスごめん。仕事してたもんで。
呉を仮想敵国とすれば、蜀は二正面作戦を余儀なくされる。
当然、魏に対する関羽の正面兵力に余力がなくなり、
それならいっそ荊州を放棄したほうがマシな情勢になりかねない。

どうあっても呉とは友好関係でいるべきで、外交努力により
魏との共闘態勢を作りあげるべきとなる。

いっそ劉備みずからが荊州に戻り駐屯すべきだったかもね。

外交ミスは語弊があった。
正確には「外交努力が足りなかった」と言うべきでした。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 02:50:00 ID:8o4eE20c0
総スカンってのは飛躍があるんじゃないのか、どうなのか。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 05:14:40 ID:Ldfpqplu0
>>24
あの時期で、趙雲にはそこまでの格はなかったんじゃないかな?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 09:36:51 ID:EMxh7k7j0
関羽に守りきれないのに他の武将に守りきれるわけが無い

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 09:55:30 ID:gAuYsaK+0
関羽守ってねえし

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 10:48:46 ID:I1RBgJ2B0
趙雲は人の下で働く人間
関羽の補佐としてなら有りかも?

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:52:02 ID:2643M5DT0
趙雲がいなかったら誰が劉備を守るんだ

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:59:50 ID:kkTSybme0
関羽+諸葛亮

でおkだろ。劉備の判断は正しかったさ
やはりシゲンの戦死が痛すぎる

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:01:16 ID:I1RBgJ2B0
>>31
陳到とかどうですか?><

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:18:39 ID:9vaUTw080
>>25
劉備みずからが荊州に戻り駐屯、に同意。
長安奪取を目指さずに、襄陽からの北上に集中しても良かった気がする。
もちろん呉とは友好関係を崩さないことが絶対条件だけど。

手駒も漢中&襄陽からの二面作戦を実行するには軍師役になれる人間に
欠いていたし、無理があったんじゃないかなぁ

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:58:34 ID:253zcSwM0
とりあえずここら辺で
諸葛亮がいたら・・・って書いてる奴は孔明がいたら何が違ったか具体的に説明してほしい
劉備がいたら・・・って書いてる奴はその間にどうやって獲ったばかりの蜀経営をするか説明(ry

それと呉と友好をって奴は、
217年に形式上だけど孫権が曹操の軍門に下って、合肥-濡須ラインがほぼ暗黙の国境として定着し、ついでに魯粛が死んで孫権が拡張するなら劉備の荊州しかない・・・
つまり国策として劉備に当たることがほぼ決定してる事をどうするのか書け。

戦略上、孫権を思いとどまらせる案はあるのか
戦術上、呂蒙を撃退する術はあるのか


○○なら〜と羅列するだけなら議論が進まん

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 13:12:00 ID:I1RBgJ2B0
カンヌたんが娘を嫁にだしてたらよかった

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 13:26:33 ID:9vaUTw080
>>35
その呉の侵略を止めるには、孔明の口先三寸で〜って言うのはさすがに無理だろうから、
支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。
そして蜀経営は麋竺や馬良たちに任せて、漢中から長安侵攻に集中する。

もし可能であれば、長安侵攻に応じて荊州から呉軍が北上する約定を取れればベスト。
だけど呉と魏の関係が良好ならそれは難しいだろうと思う。

必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw
成都に関羽と馬超、馬良らを置いて、劉備と諸葛亮、趙雲らは荊州を治めつつ呉の態度軟化を図る。
でもこれだと呉との関係を良化するのに相当時間掛かるだろうし、結果的にジリ貧になりそう。

この他に良い方法を思い付けないから、もし良かったら>>35の意見も是非聞きたい。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:07:28 ID:253zcSwM0
>支配していた荊州を呉に返還する代わりに、不可侵条約を新たに締結する。

荊州を丸々返したら孫権も劉備と事を構える理由はない。間違いなく魏+呉vs蜀から魏vs呉+蜀になる。
しかし、荊州は劉王奇から譲り受け、劉備自身は漢中王になるまでは左将軍荊州刺史だったという大儀名分が
やすやすと譲りわたすほど軽くないだろうし、仮に(ありえないだろうけど)「呉と争わないなら安い」としても、荊州士人がそれを許さないと思うよ。
この時点で劉備陣容の構成は関張みたいな最古参組・麋兄弟などの徐州組・馬兄弟や孔明の荊州組・黄権や法正の益州組で、
序列では徐州以前の古参が随分と高いけど、大多数を占めたのが荊州と益州。その両者のバランスをひっくり返すようなことは出来なかったはず。

さらにこれらの問題をどうにかして、決断しだいでは返還できたとしても、劉備が襄陽(中原)への入り口を諦めるはずがない。
呉にその侵攻路を譲る(呉がそっちから攻めてくれる)など、そんな甘い考えは一瞬でも持たなかったと思われ。
現に孫権は荊州南部を掌握後も、魏への侵攻は主に揚州から行ってるしね。
この時点で蜀の国策としての魏への侵攻は 漢中-長安 漢中-涼州-長安 江陵-襄陽-南陽 この三本立てが根幹をなしていたはず。
多分孫権などほとんどアテにしてない(←いいすぎだけど、呉の性格上余計なリスクは犯さない国だと理解してたはず)。

長くなったので区切るけど、「蜀とったから返せ」との要求の答えは「涼州取ったら返します^^;」だったはず・・・
少なくとも、漢中-長安の一本だと無理と認識してたのは間違いない。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:16:05 ID:9vaUTw080
>>38
じゃあ、>>38だったらどう対処するのが最善だと思うか、それも聞かせて。
俺には>>38の反論に対する別の策が考え付かないからさ。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 14:47:23 ID:253zcSwM0
続き

>必ず荊州は死守しなければならないのが条件だったら、漢中は最初から獲らず漢中王も名乗らないw

死守というか、>>38で書いたように何故劉備にとって荊州が譲れないかといえば、長安と襄陽を同時に脅かすことが出来るということ。
だから、荊州を放棄するからには別の侵攻路が貰えるか、もしくは長安が確実に落とせ、尚且つ長期保有できるという裏付けが必要になる。
どっちもあり得ない話(敢えて言えば・・・涼州を丸ごと手に入れれば近いのかな)なので、その時点では文字通り死守するほかない。

っと、ここで私案だけど、
まず関羽の出兵を遅らせるべきだった、というのが一つ。
というのも漢中からの同時出兵でもなく、呉との関係がいいわけでもなく、呂蒙が病気になる前で、情勢的に最悪のタイミングだったと思う。
呂蒙が急襲したというのはあくまで関羽の留守中に、しかも呂蒙が病気と信じて守備兵を減らした後ということだから、関羽がいれば正面からくる可能性は限りなく低い。
仮に正面から来ても、恐らく3万と言われてる劉備の荊州方面の総兵力があれば援軍が来るまで持ちこたえるだろうし、上手く行けば領土を失わないどころか、
漢中方面で曹操に動きがなければ215年に失った長沙と桂陽を取り戻せるかもしれない。
まぁこれは後知恵以外の何でもないけど、220年には呂蒙は死ぬ訳だしね。

関羽が独断で攻めたはずが無いので、恐らく本拠地-漢中-上陽-襄陽-江陵-本拠地というリンクを作る劉備の腹だったんだろうけど、甘すぎたと思う。
二正面作戦を強いられてる方面で敵片方への配慮を疎かにし、その上ほぼ無援だったのだから、攻勢に出る場面では決してなかった。

というわけで、また長くなったけど、「襄陽攻めるな」「待て」ってのが取れる限り最善だったってのが持論です。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:08:33 ID:9vaUTw080
>>40
続きの途中に書き込んでしまってすまんかったです。
なるほど、関羽に侵攻指示を出すのをもう少し待っていれば、まだ状況は良かったかも知れないと。
この指示は恐らく諸葛亮によるものだろうから、これは諸葛亮の大きなミスと言えるね。

そうなると、漢中を獲ったまでは良いにしても、漢中王宣言は失敗だったのでは。
あの宣言は魏への反乱の火種にはなっただろうけど、同時に呉に与えた衝撃や圧力も小さくなかったと思う。
もしあの宣言がなければ、呉の態度はもう少し軟化していたのでは?

と思うんだけど、これも甘い考えかな?あんまり自信ないw
それともう一つ。荊州を統治する大将として関羽を置くのは妥当だったのかな?
誰か他の人材を置いた方がいいとかあればそれも聞かせて欲しいです。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:13:50 ID:eXWlHs5F0
>>40
ふむ。
そうすると関羽は自分で反乱の兆しを撒いといて、
いざ反乱が起きたらそれらを援助せず見殺しにしろと?
たぶん、蜀は反魏から二度と信用されなくるね。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 15:40:28 ID:253zcSwM0
>>42
そう。全てが早過ぎた。
反乱を利用しに出兵して、その出兵を利用されて全てを失うくらいなら、まだ見殺しにしたほうがマシ。
大体、曹仁をはじめとする本来の守備隊に加えて于禁と徐晃、
果ては夏侯惇まで動いていた魏に勝機というか、落としどころはどうみても無い。
魏から見たら襄陽と樊城は荊州から呉なり蜀なりが中原に出てきたときの「蓋」なんだから譲るわけがない。
つまり単独で攻めたら魏の総兵力を相手しないといけないわけだし、結果として徐晃軍で打ち止めになってる。

ようは負けても元の鞘に戻るだけという認識だったのだろうけど前にも書いた通り、
呉は既に帰順して(おまけに親劉備と言われてる魯粛が死んでる)その矛先を劉備領荊州に向けてたのは217年の段階で明白だったはずだし、
「関羽が居ない」「守備兵も少ない」「関羽は撃退されて退却中」こんな好条件がそろってる中で攻めて来ないと考えるほうがおかしい。
仮に襄陽と樊城の奪取に成功しており、失ったのは南郡と零陵武陵・・・つまり領土だけで、残りの関羽軍は健在だったとしても
完全に補給も援軍も絶たれてる中で北から魏、南から呉という絶対的な挟撃を防ぐ手立てはないと思う。

関羽にとって魏への出兵は漢中の劉備出兵とセットであり、これによって関羽への圧力が減ることが唯一の襄陽奪取・維持の条件じゃないかな。
それが出来ないのに小事のため(決して小事ではないけど・・・例え、ね)に大事を失うのは余りにも痛い。

44 :劉備を荊州に駐屯論者:2007/09/09(日) 16:10:10 ID:xEOFZvSaO
私見では以下の布陣を。

荊州…劉備、関羽
成都…孔明
漢中…魏延
遊軍…張飛、馬超

劉備率いる主力が江陵に駐屯していれば呉も迂闊に手出しできない。
孔明らに内政を任せ、新規に徴発した兵を張飛らに訓練させておき
いったん緩急あれば関羽を北上させる戦略。

おそらく魏延がナイスなタイミングで長安を突いてくれる(ハズ)

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 16:13:01 ID:t7e47CWk0
>>43
損得で味方を見殺しにするやつは滅びると横光三国志に書いてあった

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 16:46:06 ID:253zcSwM0
>>41
漢中王はあまり呉の方針に影響は無いと思うよ。
何が呉を変えたのかというと

・合肥+守備軍が強すぎる(何度も痛い目にあってる)
・下?は地理上リスクが高すぎる

という風に、この方面は攻めるのには難しすぎるという結論に達した事。
逆に防衛には成功してるので両者で自然と国境線が出来上がってしまって、膠着してしまったこと。


それに加えて、赤壁後決して荊州南部をフリーで劉備に渡した訳じゃなかったこと。
特に江陵は全力で奪ってるのに、奪ったことによるメリットは劉備にしか行ってなく、
いくら大義名分が劉備にあるとはいえ荊州南部は(特に劉備が益州獲ったなら)呉の物であるという下地があったこと。
(現に劉備も「返します返します」と空手形だけど、何時かは呉へという負い目があったと思われw)
孫権から見たら、荊州北部方面の侵略から揚州を守るには夏口を、夏口と荊州南部を守るには江陵を、と江陵はどうみても最重要拠点とみなされてたはず。

長沙桂揚割譲後の呉の領土は、曹操から見ると劉備の江陵を落とせば揚州と荊州南部両方にナイフをつきつける格好になる。
劉備から見れば(その気はまるで無いだろうけど)いつでも取り返して孫権の荊州の足場を夏口だけにさせることが出来るように見えたと思う。
つまり、呉からすれば江陵が無いと赤壁からの努力はいつまでも不安定な訳で、
劉備が居座る限り衝突するのは必死だったということになる。

呉が軟化する可能性として考えられるのは、

・曹操が死ぬまで待って「魏が弱くなりました!攻めるチャンスです^^」と、矛先を魏に向けること
(現に孫権は死後襄陽を奪おうとしてる)
・涼州を本気で取りにかかって「あと少しで荊州返せますから待ってください!今度は本当に返します!」と話に信憑性を持たせ、
「あと少しで手に入るなら待とうかな」と、考えさせること

これくらいかな。

あと、関羽を配置したのは凄く妥当。
入蜀前だと、正式に漢から高位を授かってるのは劉備以外では
関羽の偏将軍と張飛の中郎将くらいで他は取るに足らない・・・
尚且つ対外的にもこの二名が飛びぬけて有名だった。
さらに軍権を握るに当たって実績と信用でこの二名に匹敵する者はいなかったこと。
これらを考えると、はっきり言って関羽か張飛しか選択肢がなかったはず。

漢中王になって勝手に人事できるようになったあとでも、劉備陣営で名実ともに関羽に伍するのは馬超と張飛しかいない。
結局、「関羽しかいなかった」が正解だと思う。


>誰をつけるか

普通の場合は越権や独断行為を監視する目付け役なんだろうけど、関羽の場合はそれが必要ない。
関羽に外交権などは当たり前に無かっただろうから、「付く人」というのはほぼ100%軍の役目・・・
法正のような策略家で尚且つ関羽も話を聞く人、樊城戦の見極めが出来た人かなぁ〜
正直、思いつきません・・・
拠点の太守の(劉備からみて)信用度は「絶対裏切らないレベル」の麋芳だし、裏切りに近い投降をするだろうという前提で代えると後知恵になってしまう。
・・・守勢に強く、機転が効く・・・張既のような人物を守備に置いて行けるような状況だったら良かったと思う。

(黄権or法正+孔明or馬良)/2=?



47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 17:04:46 ID:xEOFZvSaO
>>44ですが、>>46氏の考えにかなり賛同します。

で、補佐の人材ですが、いわゆる大物軍師である必要もないかと。
すでに国家の戦略は孔明がいますし、荊蜀で得た有能な幕僚もいます。
関羽に必要なのは局地戦での戦術を立案する参謀では?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 17:43:25 ID:Nz93tv6aO
>>45
でも関羽はあっさりと言う程綺麗にやられちゃうしなぁ

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:03:47 ID:9vaUTw080
>>46
レスサンクスです。
せめてもう少しだけ待っていたら曹操も呂蒙もいなくなっていたのに・・法正も死んじゃうけど。
でも曹操の場合、関羽が生きたままなら数年長生きしてそうだけどw

関羽の傍に置く人物は、やはり馬良ぐらいなものな気が俺もしますね。
侵攻を数年遅らせた場合、蜀内も内政的な意味でもっと安定していたことだろうし、
そしたら諸葛亮の負担がもっと減っていたかもしれないし。

やはりあの状況下で関羽を動かしたのは、天命が無かったというか何か諸葛亮の焦りが感じられますね。
ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。

こうやって考察して行く内に俺の中で結構まとまったのですっきりしましたw
とても有意義だったと思います、ありがとう。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:34:20 ID:eXWlHs5F0
>ただ、数年遅らせても曹操が死亡しなかった場合、その数年間に待ちきれずに呉が侵攻してくる可能性が
>高いだろうから、それも運頼みでしかないところが辛いところ。

数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。
魏は漢中の敗戦で反乱が連続で出て襄陽の守りが薄くなっただけだし。
多分、攻めなければ江陵は曹仁に落とされた可能性のほうが高い。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 21:48:54 ID:9vaUTw080
>>50
曹仁らを相手に守り通すのは難しいということね。

とすればどうすれば一番ベストなのか、>>50の対案を聞きたいところだけど

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:08:18 ID:eXWlHs5F0
なにをもってベストなのか分からんが、
たった5年足らずで益州と荊州を両方維持しようするのが無理がある。
孫権ですら江陵の維持は難しいと見て、劉備に貸しと言う形にしてるし。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:22:05 ID:9vaUTw080
>>52
>>1を見る限り、荊州の維持もしくはそれと同等の価値を持った戦略=ベストだと思う。

益州と荊州を両方するのに無理があるなら、荊州から撤退すれば良かったってことなのか、
それとも他に何か手段があったのか、考えられる戦略を教えて欲しいな。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 22:30:45 ID:eXWlHs5F0
と言うか、曹操はどうすればベストか、孫権はどうすればベストかを
考えれば劉備の行動もある程度の方向がわかると思うが。
少なからず今まで無茶の結果が呉に荊州を奪われる事になったが
これは劉備にとって最悪ではないからな。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 01:32:44 ID:UpNW8RF50
>>50
>数年どころか曹仁は関羽討伐の準備をしてたんだが。

鎮南将軍として赴任して宛の乱を治めたのは周知だけど攻勢を準備してたのは初耳。。
というか、拝命してから4年は立ってるはずだけど、その間に曹仁のメジャーな攻勢または攻勢の計画ってあったの?
江陵は周喩の攻勢に耐え切れず放棄し、南郡の大部分を諦めた土地だと思うんだが・・・

>>52
維持しなければ益州に閉じ込められて中原への覇を唱えることは無理、
つまり荊州放棄は地方政権として甘んじることを半ば公表するようなものだよ。
それは劉備の国家としての成立ち全てに矛盾が起きるのでありえない。
それに孫権がとったばかりの江陵を放棄した210年と、荊州経営から9年がたった関羽の219年は比較できないんじゃない?
孫権は荊州に足がかり=コネが殆ど無い上に直接曹操の脅威に面し、
その上江夏と違って江陵を守ることイコール劉備の領土を守ることだから旨味がほとんどなかった。
つまり放棄して劉備に「貸す」ほうが美味しかったわけで、技術的な問題じゃないきがする。
関羽が難しかったのは益州から遠く離れてほぼ独立経営状態で魏と呉相手にし、その上で片方に攻勢を掛けるという本来あってはならない状況だったから。
逆に一時的にせよ守るだけなら、固めて援軍を待てばいいのだから、魏か呉の侵攻=喪失にはならない。


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 01:38:15 ID:UpNW8RF50
自己レス>>55
>拝命してから4年は立ってるはずだけど

何を狂ったのか、4年はありえないね・・・
218年に反乱があって、219年初頭に鎮圧だから、どう考えても1年未満。
スマセン。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 02:54:19 ID:s3QrNuw20
>>35
ついでに、孫権の妹を劉備のもとに呼び寄せる条件をつければ
よかったと思う。

孫権の妹の里帰りの後、孫権の息子と関羽の娘の婚姻話が出たんだよね?
時系列が間違ってればすまん

58 :ポントラーフ ◆rF3U/UzFSU :2007/09/10(月) 07:15:11 ID:GNFvYxbv0
じゃあ僕がケーシュー守ってやんよ

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 10:50:29 ID:4hKF2ZA70
いやいや俺が

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 14:17:17 ID:LNVWJkdf0
仮に荊州を任された者が劉備に叛旗を翻して自立独立した場合、
三大勢力に囲まれた中で、巧みに勢力を維持なんてできるだろうか?

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:14:19 ID:gEBdm4h70
荊州全体の戸籍数は益州の三倍。地理的には益州領有するよりも人材面
経済面で勝るな。さらに南を支配できれば交易も見込める。
そして漢中を通らず蜀を滅亡させることすらできる。

だが襄陽は非常に後の時代の戦いを見ると北方面から守りにくい。
地形的な守備力という点では最弱だろう。全方面に面しているし。
荊州という土地は独立する土地じゃなく南朝政権に吸収される運命の
土地なんだよ。益州は土地の閉鎖性で独立が可能だが内部の人の上に
のっかる形に常になるな。
荊州は経済面と人材面では将来も充実してる地域だが独立は無理じゃないの

そして関羽の代わりは劉備本人とその幕僚がするべきだったのかもしれない
な。
漢中が安定してなくて益州も不安だろうが守るだけなら荊州よりは易しい。
ただ関羽は益州の複雑な利害関係を政治統治する能力は0だし李厳やなんか
に任せて益州人にパワーがシフトするのも困る。
諸葛亮と張飛魏延馬超あたりかな。 

貧乏と過疎というボトルネックを解決するためには荊州は必須だから
歴戦の劉備本人がいれば関羽よりはマシじゃないかな。

どの道、北伐というのは南と北の肥沃さが逆転しない限り不可能という
ことが実証されてるわけだから結果的には守勢をメインにすべきだったな。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:16:34 ID:XaB7P0pD0
>>61
確か人口の3分の一以上が南陽郡に集中してるんじゃなかったっけ?

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 15:24:28 ID:ORiZ5L900
劉備は蜀割拠が目的ではなく、漢の領土全部を手中にする
足がかりとして蜀に拠ってるんだろ。
だったら無理でも出て行かないとダメなんじゃないか?

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 16:56:04 ID:kvOFsREoO
>>61
どっちにしろ魏呉の主力軍と渡り合える将帥は劉備しかいませんしね。
東西南北の軍事の要衝である荊州であればこそ、
やはり劉備みずからが駐屯するべきだったでしょうね。

余談ながら、何年か失念しましたが劉備が益州入りした直後
呉軍が南荊州に侵攻した事件がありましたが
その時には劉備みずからが蜀から荊州に下り呉軍と対峙してます。
で、諸葛兄弟の会談により湘水を境とする合意がなされますが
これも実は孫権が劉備軍…の圧力を勘案した妥協だったのかも知れませんね。
ヤル気なら交渉には応じず江陵まで一気に攻めたでしょうし。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 17:20:45 ID:jiF35xR3O
関羽じゃなくて岳飛や楽毅が荊州治めてればよかった

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 18:22:15 ID:HW40GzrgO
李厳は荊州人だからむしろ荊州においとくべきだったんじゃないの

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 00:35:22 ID:WYJSIJUg0
荊・益を一つの勢力として抑えようという戦略がまず無理があったんじゃないかと。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 03:38:47 ID:tVQjZCyK0
>>67
kwsk

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 13:04:13 ID:zpSv6dCaO
カンヌ以外におらんでしょ
蜀取るまではどことも戦いたくないだろうし
周りへの影響力ではカンヌしかおらん

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 13:06:04 ID:NBXq4XZm0
荊州を死守することは不可能だったと思う
孫権との縁談が成功してれば可能性はあったかもしれないけど

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 20:41:52 ID:0kqCXw1Z0
>>60

その時代では無理。無理だから劉備に叛するなら曹操か孫権に流れる。
それは魏でも呉でも同じ。
超辺境な交州の士燮や遼東の公孫一族ですら半独立の服従がやっと。
仮に劉備から任されたのが関羽以外で、もう劉備ヤダってなったらどちらかの支配下になるよ。
劉備からみたら失うことも嫌だけど(失うだけなら劉備は0になるけど魏や呉が+にはならない)
敵対勢力の利にもなるから絶対に信用できる人が必要だったわけ。





俺は最近、荊州の喪失は劉備に親族・血族が居ないことが遠因なような気がしてきた。
唯一のそれにあたるのは養子でしかも将来実子の敵になりうる劉封だけ。
曹・夏一族は出来すぎだとしても、せめて孫一族程度の血縁がいたら劉備の負担はグンと減って、
持ち得る選択肢も増えたのではなかろうか。
やっぱり幽州の出自で益州が勢力というのは、背景は似たような(土着豪族、財無し名無し)孫一族が揚州に根付いて発展したのと比べて物凄いハンデなような気がする。

孫権は頻繁に情勢に合わせて拠点を変えてるし要所を一族の者に任せたり一軍を率いさせたり・・・つまり重要方面を完全に任せられる人物が居た・・・のに、
劉備は領土を得たばかりで尚且つ自分がフレキシブルに動けないというのはね・・・


72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:14:47 ID:q9Sdwdtw0
>>67
益州と荊州の境は、大巴山脈や巫山山脈の非常に険しい地勢。
長江沿いに移動するしかないけど、
あの時代によく軍隊の行き来ができたものだと思うよ。
蜀の領土として維持し続けたとしても、
荊州は常に半ば独立した格好の不安定勢力になり続けたと思う。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 20:06:21 ID:86Uwf0AM0
>>55
曹仁が襄陽に来たのは曹操から関羽を責めるために派遣されたと
何処かで読んだ

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 20:47:50 ID:FjdNn/zh0
>>73
多分それの根拠は武帝紀だな。
武帝紀の侯音の乱の記述の所に、「初、曹仁討関羽、屯樊城」とある。
この記述だと、既に曹仁と関羽の間で何らかの衝突があった事になる。
これが218年冬10月の事で、217年2月の所では夏侯惇らと共に居巣に駐屯した記述もあるから、
曹仁が樊城に入ったのは、この間の事だね。

考えるヒントになりそうなのが、218年正月の吉本の反乱じゃないかと思う。
武帝紀の注釈に引く三輔決録では、吉本らが劉備に援助を求めるつもりだった事と、
関羽の勢いが盛んだった事が書かれている。
曹仁を樊城に派遣したのは、この吉本の乱の前、217年内の事だと思う。

関羽の勢いが盛んだったから、荊州の防御に曹仁を回す。
その後、吉本が関羽に助力を頼みつつ乱を起こして、関羽が援助の為北上。
樊城にあった曹仁が関羽に当たってこれを撃退した、って流れなんじゃないかと。

だから、武帝紀では既に何らかの衝突があったように書かれてるんだと思う。
まぁ、その後に関羽を討伐する計画があったかは分からないけど。

75 ::2007/09/14(金) 12:04:36 ID:ohUaDBiSO
張飛、縻方、陳到、李厳、馬良、魏延を残して、関羽派は漢中だろうね。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:26:46 ID:NtJTqGAXO
結局、蜀と荊州とどちらを重視するかによる。
蜀重視なら関羽は荊州残留だし、関羽以外に任せられる人材はいない。
荊州重視なら劉備自ら荊州に戻るべきだし、
そうなると蜀地内の安定は孔明の双肩にかかる。
漢中制覇から関羽の北上までの一連の流れは間違いではないし
兵勢から考えても一気に攻勢に出てよい局面。
やはり外交の不徹底が最大の敗因だろうね。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 14:48:32 ID:vM6w49Gf0
>>76
まっ結局はまとめる人材が何人かいればよかったのだよ
後、関羽とその他を円滑にまとめる誰かがな

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 15:45:37 ID:3YkIMdBo0
シミュレーション小説っぽくなるが、ジョショがいてくれたらなぁ…

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 16:17:24 ID:NtJTqGAXO
文官が一人増えたところで大勢はかわらないよ。
ifを言うなら、魯粛や満寵のような大器が必要だった。
劉備軍閥は長期の流浪により、軍団としての結束は固かったが
規模がなかなか大きくならなかったために大器の人材が育たなかった。
最後まで、劉備一人が将軍だった。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 16:55:15 ID:n8oAARHHO
ジョルノ・ジョバーナやブチャラティがいれば万事丸く収まった。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 17:02:03 ID:ObLqmK4l0
徐庶なんていても何の役にもたたねーだろうなw 
徐庶は穎川の出だし魏のほうがいろんな意味で向いてたんだろうし。

要地を纏める人間てのは別に軍事の天才でも内治の天才でもある必要
はないそれ自体が能力。防衛施策を施し、安易に動かず水面下で有事に備える。
自分の寝る時間を削って人と対話をし人間関係を築く呉の呂岱みたいなのが
いればよかったね。

蜀て本拠四川政権じゃ荊州保有時は歴代有数なんだよなぁ。荊州あって
存在価値があるわけで。

攻勢に出たのは大いなる間違いだな。近代除いてこの戦力差、この
人口差で北上して成功した事がない。それだけ南から北は至難な事だ。
桓温は中原が無茶苦茶な時に隙をついて成功したがそれでも即時放棄を
余儀なくされた。東晋よりも領土の小さい蜀が安定してる大国を攻める
とかリスキーだ。やるなら魏が無茶苦茶な状態になるまで刑州を全力
で堅持してそれからだろう。 本拠も安定してねーし。

攻勢の戦略というのが劉備の致命的な失敗。 
髭も大人しく堅牢しとけやて言われてれば守りきったかもしれんし。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 18:42:15 ID:vM6w49Gf0
>>79
そうか?
まとめ役がいれば少なくとも即降伏はなかったろから
守れたんじゃないか?

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 00:32:25 ID:vQTEAqZQ0
>>79
張さんは育ったろ。呂布時に比べたら。
少なくとも、荊州脱出時点での仁王立ちとかなかったら
劉さんが死んでるか、少なくとも、軍事基盤を失ってる。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 14:48:18 ID:4l3LBCEe0
>>72
南朝の西府軍のような存在になったかもね。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 15:47:24 ID:vko+FU16O
>>83
張飛は育ったというか、将器が開花したというべきかな?

それまで小部隊を指揮する程度の役目しかなく、
国士の器でありながらも将器を発揮できなかっただけでは?

関羽も同様で、荊州を任されてようやく中原に威を轟かす活躍が出来たんだと思う。
逆に言えば二人が劉備ではなく曹操を主君としていれば
早くからもっと活躍できていたかも知れない。

庶民のまま終わったかも知れないけどw

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 21:35:29 ID:NYy9MaGKO
趙雲だったら守れた?サポートは法正とか

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:28:57 ID:GUGYONzW0
ここは良スレだなあ

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:31:18 ID:CjEBgadr0
>>85
関羽ってもし曹操に仕えていたら、どこまで出世したのかなあ?


89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:32:16 ID:gd+z2gqg0
>>88
かなり出世したと思うよ
曹操が気に入ってるのだから

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:33:53 ID:q/q6/7ot0
>>86
三戦板に似たような名前のスレがあるから過去ログ漁ってみるといいよ

初期は稀に見る良スレだった

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 23:40:16 ID:gd+z2gqg0
>>90
初期は良かった
まじめに議論してるひとが多かったから

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 00:22:29 ID:+lSD3xve0
劉封の立場が不安定だったのが惜しいなあ
なかなか武勇に優れていたそうだし優秀なお付きが居れば
一方面だけでなく荊州全体を守れるくらいになってたんじゃないかな

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 01:16:26 ID:MJ437q/mO
>>86
趙雲じゃ話にもならない。
広大な荊州を統治して、人民の信望を集め地方豪族を統括するには
主君劉備に並ぶ名声と器量が必要。
無名に等しく、一部隊長程度の将器の趙雲では無理すぎる。

>>88
出世したかどうかより、曹操の知遇を得られたかどうかが肝心かと。

>>92
むしろ養子ではなく臣下であれば有力な候補だったろうね。
将器としては魏延にも匹敵しただろうし、猜疑の目で見られない臣下であれば
抜擢もありえたかも。
なまじ養子であったために無用な疑いも受けたみたいだし
権力も与えられなかったように感じられる。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 10:41:22 ID:yFBMtM/G0
臣下だったら余計無理だと思うが、劉封はまだ若くて武名も足りない
親族扱いだからこそ一方面を任せられた訳で、一臣下の身分で荊州を任せられる訳が無い。
また器の面でも孟達との一件を見るに荊州を任せるに足る器とは言い難いし。

元々荊州自体が不安定過ぎる、人材・兵士共に益州へと流出してる上に大勢力に囲まれた地域で
さらに劉備との義侠的な繋がりと個人の武名しかバックボーンの無い関羽しか、
荊州を任せられるに足る名声が無いところが、劉備側の人材層の薄さを物語ってる。
あと劉備の人材配置は軋轢を無視してる傾向があるから、そこも憂慮すべき点だと思う。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:18:03 ID:NBrSTMpA0
上庸は魏からも蜀からも特別に重要視された形跡がないからな。


◎長安     宛城へ
|        ↑ 
|漢中     ○ハン城
○-----△----◎襄陽
|        | 
|成都     ○江陵
◎-----------○公安
          |
          ○武陵
          |
          ○零陵


見難いけど△が上庸。
漢中より陸の孤島で、正に鶏肋という表現が相応しい。
劉備からみたら重要度は
@益州(本拠)
A荊州南部(中原侵攻への拠点)
B漢中(長安侵攻への拠点兼第一防衛ライン)

劉備が自然に@。
Aに趙雲(親衛隊長、一部隊長)とか劉封(実子が出来た前に取った養子)とかだと話にならない。
結局関羽しか居ない
ただでさえBで魏延という冒険をしてるんだからね。


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:28:20 ID:MJ437q/mO
>>93です。

>>94>>95
まず、真摯なレスに感謝します。
上のほうにもあったけど良スレですね。
これからもヨロシクです。

で、私見の続きを。
劉封はかなりの大器だったと思います。
若くして劉備に見出だされただけでも非凡であっただろうし
後に孔明らに警戒されたように剛勇で気宇壮大であったろうと思います。
これは魏延に似てると思いませんか?
魏延が漢中の督に抜擢されたのと同様に
劉封も抜擢された可能性はあるかと思います。

ただその足枷が「養子」という微妙な肩書。
実子でもなく、半端に影響力のある立場だけに
強大な兵権は与えにくかったのではないでしょうか?

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:50:37 ID:yFBMtM/G0
>>96
非凡であっても入蜀の際には若干二十歳余でしかない若者が、
劉備の親族という立場なくしては一方面の司令官とかまずありえないし、
実際には孟達の送った手紙を見る限り、劉封は劉備の親族としてかなりの待遇を受けてる事は間違いない。
また劉封は気力・武勇に優れていたとあるが、武勇ならば三国でも傑出した存在である関羽を
差し置いて、劉封を荊州に配置する意義も無い。

それからハッキリ言ってしまうと劉封の戦績は乏しいんで実際に魏延に匹敵する将器かどうかは不明だし
気力・武勇に長けるというだけで匹敵するというのは暴論であり、
ぶっちゃけ魏延自体が荊州を統括するには格不足で、魏延と=になったところで荊州督は無理。
既に書いたけれども、個人的な軋轢から孟達を侵害して上庸を失うなど、大将の器としても疑問なんだけど。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 11:54:18 ID:sI4gv9n40
劉邦、魏延の悲劇は同陣営に孔明がいた事 これだけはガチ

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 12:15:59 ID:NBrSTMpA0
うーん・・・
まずね、漢中王宣言後の人事では
劉封は副軍将軍、所謂「雑号将軍」ね。
劉備の代表的な将軍は同じ時期に

関羽:前将軍(仮節鉞・督荊州)
黄忠:後将軍
馬超:左将軍(仮節)
張飛:右将軍(仮節)
魏延:鎮遠将軍(督漢中・太守)
趙雲:翊軍将軍(漢中前)虎威将軍(漢中後?)

この時の劉封は恐らく30才前(益州侵攻時に20+)だから、スピード出世ではあるけど
上記には遠く及ばない。
仮節ってのは軍事裁判権というか、軍規に背いた者を裁く権限のこと。
名目上は黄忠が2位だけど、仮節がないことから名義的なものだと判る。
逆にいうと将軍トップ3は関羽馬超張飛。

(記憶が正確でないので鵜呑みしないで→)特に関羽は「鉞」といって軍にとどまらず、
劉備が任命した官位を持ってる人も裁く権限が与えられていた。

こういう権限が与えられるのは、功があり信用され内外に名がある将軍だけ。
30弱で劉備の「身内」だけど微妙な立場の劉封にはとてもじゃないけど、与えられる役割ではない。
確かに養子という点で出世スピードは速いけどね・・・孟達が劉封の微妙な立場をよく理解してる文章があったので良く読むといいかも。

「猛勇」であるという記述は確かにあるけど、それだけで蜀の命運を握る荊州を任せるわけにはいかないのが当時の現実だと思うよ。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 12:17:15 ID:NBrSTMpA0
あ、書いてたら>>97とかぶったw
ごめんなさい

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 13:17:34 ID:yFBMtM/G0
>>98
そりゃ違うと思うね。
劉封の悲劇は、劉備が劉封に対して立場を配慮した人事をしなかった事であり、
もっと遡れば養子にとられたこと自体が悲劇の始まり。
孟達が指摘するとおり劉封の立場は微妙であり、劉禅からすれば脅威になりかねない存在
諸葛亮の提言は実に理に適っており、政権の安定性を考えるならば仕方の無い処置。
また劉封自身にも上庸においての罪もある。

魏延は諸葛亮の下でも栄達を続けており、諸葛亮に暴言を吐いても
同僚と問題を起こしても我慢強く使ってもらってる辺り
諸葛亮の指揮下に居た事は決して悲劇ではない。
魏延の悲劇は自分が全軍を担う将軍の器と勘違いしちゃった事だろう。
諸葛亮の撤退命令を無視して楊儀と政争を起こした事も魏延自身の判断に基づいた行動だし
誰かのせいと責任転嫁できる類のものじゃない。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:03:14 ID:MJ437q/mO
皆さんの意見は筋道が立っており概ね同意できました。
まあ、ロマンと妄想の一つとして「劉封大器説」を唱えたくなりまして…
歴史は勝者が記すものですから、
敗者である劉封があまり良く書かれなかったのではなかろうかと推理しまして。

確かに当時の劉備陣営としては関羽張飛ぐらいしか大将がいなくて
あの配置が最善であったろうというのは理解できます。

そうなるとやはり、勝敗は兵家の常ながら関羽の不覚が惜しまれますね。
南荊を失う事なく呉軍を撃退できていれば…と思います。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:23:19 ID:dHleCWf10
武勇に優れ〜、張良陳平の風があり〜、知略に優れ〜て評は一種
のきまり文句みたいなもんで正史には頻繁に使われる常套句。
剛勇的に書かれてる=名将なんて評価してたらどうなんだよw
三国志だけ読んでるなら誤解するのかもな。

劉封は普通に将軍としては使えるが一線級に及ばない並鄭度の
戦術レベル将軍ってとこだろう。

結局孤立した荊州てのはそれだけ難しいんだよ。
三国時代のおかげで発達した襄陽含む荊州が肥沃だから割拠しようぜ!
という意見が出てもあえてほかの地を拠点にする英雄もいるくらいな。 

蜀には、遣れる人間が親分と舎弟関羽しか居らず恐らく高能力将軍で
あろう魏延はまだ若干実績が足らず性格的に関羽と同じ問題を起こす
可能性もある。 張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく、諸葛亮もこの地点でまだ官位も高くなく趙雲なんて全く
不向き。劉封は単独でやる器では到底ない。馬超は軍閥帰参という
意味で評価されてるが実際微妙な存在なので使えない。
よって使えるのは関羽と劉備しかいない。
 
劉備は歴戦の男だが符堅らと似た英雄。優れた大器だが統一者に
一歩及ばず肝心な所で失敗をし下手すりゃ戦死、捕虜というな。
劉備が守っても失墜戦死でも十分ありえる。 そういう微妙な
政権だけに人材も少ない。

ここは関羽がやはり守り、孫権に譲歩して割譲これが当面妥当
じゃねーか。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 16:49:39 ID:NBrSTMpA0
>>99
自己レスだけど
仮節と仮節鉞をちょと調べてみた。

仮節は、まぁ普通に自分が指揮する軍内の処罰権限。
張飛が下の者に厳しく当たり過ぎってことを劉備が諌めたセリフ、

卿刑殺?過差,又日鞭?健兒,而令在左右,此取禍之道也

これって仮節が無いと出来ないことね。
仮節を持ってない魏延は鞭打ちくらいは多分太守の権限で出来るだろうけど、
処刑などは出来ない。しようと思ったら劉備に問う必要がある。

んで、仮節鉞は
@独自の軍権
A軍に留まらず、官位持ちをも裁く権限

二つ説があるようだけど、前者ははなはな疑問。
そもそもこの時代に限らず、独自で軍を動かしていい権限とはほぼ独立を承認したも同然だし、
中国の伝統である文>武に物凄く反している。
こんな危険な官位が(劉備との特別な関係を持つ)関羽だけでなく漢や魏にもあって
しばし独立した軍権など必要がない者に与えられている事からも否定されると思う。

後者は三国の時代から100年ばかり経った時代になるけど

使持節
持節
仮節

使持節が二千石以下の官職を処罰できる官位だったらしく、
持節が軍に関わることなら二千石以下の者を処罰できる権限。
仮節鉞が使持節に相当するとなると、事実上外交権を除いた荊州の全権になってしまうのでこれは無いと思う。
いくらなんでも平時に置いて太守の処罰権などありえないから持節と考えるのが妥当かな。

さらに掘ってみると鉞っていうのは殷周の時代から処刑道具として皇帝の権力を現していたものだから、
具体的な軍事権限と見るより、それに纏わる人事(処罰)権の一種と見たほうがより納得できる。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 17:07:56 ID:NBrSTMpA0
>>103

張飛は漢中でヘマを減点されており親分が使う気
がなく

↑これについて詳しくお願いします
どういうヘマをして劉備からしかられたのか、教えてください。

漢中前哨戦で張コウを破った記述しか知りません・・・・

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 19:52:02 ID:NBrSTMpA0
>>99 >>104
さらに自己レス・・・何度も申し訳ない
関羽・張飛・馬超・黄忠の四将軍は三品官相当。
趙雲の虎威将軍は恐らく四品官相当の中二千石。
魏延の鎮遠将軍と劉封の副軍将軍は五品官相当の二千石じゃないかな。
ただし、魏延は督・太守も付いてるので名は二千石で実は中二千石という、
実権の話は置いといて名目上は趙雲より微妙に下の位置だったと思われる。


>>102
上から数えると、劉封は軍の第四クラス(魏延を2.5とすると第三)のラインにいたわけだけど、
これを高いとみるか妥当と見るか低いと見るかは貴方次第。
私は30弱で軍に付いてから十年未満の人間からすると異例の出世速度だと思う。
逆にいえばコレが限界。


ちなみに諸葛亮が益州平定後に軍師将軍(左将軍府事)で漢中平定後がよくわからないんだけど
劉巴が尚書
蒋?が尚書郎
法正が尚書令・護軍将軍
だから法正よりちょい下と見れば趙雲と同格くらいと思われ、
こうしてみれば劉封の官位は本来より不自然に高いが、
荊州を治めるには低いということがわかってもらえると思う。

まぁ一番不自然なのは黄忠なんだけどねww

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:03:33 ID:yL6pW3BD0
魏随一の猛将夏侯淵をあぼんさせたのはそれだけの仕事じゃないだろうか

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:31:52 ID:4P1RuB/V0
当時の蜀の将軍位を指して、何品だからどうのってのは意味無いと思うけど。
劉備時代の蜀に九品官人法を当てはめられるとは思えないし。

驃騎将軍や車騎将軍などを除けば、四方将軍が蜀では最も高位の将軍位で、
それに次ぐのが四鎮だろう。
趙雲の虎威将軍は、趙雲別伝に「軍中では趙雲をなして虎威将軍と号した」とあるだけだから、
実際に拝命しているかは分からない。
本文どおりに翊軍将軍としておく方がいいと思う。

鎮遠はよく分からないけど、劉備を漢中王に推挙する上表で、征西将軍黄忠に次ぎ、
揚武将軍法正﹑興業将軍李厳を凌ぐ位置として、頼恭が就いているところを見ると、
将軍位としてはそこそこだろう。
副軍将軍のついては劉封の記述しか出てこないんで分からないが、
上記の通り四方や鎮遠よりは下だし、翊軍も後に霍弋がこの将軍位を帯びたまま、
統南郡事であった事を考えると、単なる雑号よりは上かもしれない。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 20:38:32 ID:0qpY+d2oO
荊州の人民物質を全て蜀に移してたら…

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 21:43:49 ID:NBrSTMpA0
>>108
だから「相当」ってつけてるよ。序列をわかりやすくね。

虎威将軍の件だけど、どうしてもそう呼ばれただけとか称しただけとは思えないんだ。
実際に虎威将軍位はあって、魏と呉の話だけど中々の人物が拝してる役だし、
その人たちの官位歴を見ると四方将軍就任の前に大体位置してるから雑号の中では相当上だと思うよ。
(功を建てたばかり)趙雲だけ翊軍のままで、昇進から外れたと考えにくい。
だから別伝が何かしらの理由で本伝には書かれなかった事実を、捻った言い回しで付け加えたんじゃないかな?
つまり実は魏呉の虎威に相当する将軍に昇進したんですよ、と。

鎮遠は頼恭が元々ほぼ実権は無かっただろうが交州刺史だったことを考えると
それなりの雑号だと思う。特に征西の次、雑号の筆頭に来ている辺りね。
もし虎威が魏では四征の真下の雑号(一気に四方に昇進できる射程内の位っぽい)で、趙雲がそれに相当する将軍位だったとすると
>>106は一応格好つくかなw


111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 22:19:10 ID:4P1RuB/V0
>>110
別に「相当」ってのはいいけど、四方が三品相当で、
虎威が四品相当で、鎮遠と副軍が同格の五品相当だとかってのは、
何を根拠にしてるのさ?
明確な根拠も無いまま言ってるんだったら、余計混乱するだけで分かりやすくならないと思うよ。

虎威将軍に関しては、任命されたとは書いてない以上、
そういう昇進をした、と当たり前のように書くべきじゃないと思う。
翊軍だって、霍弋はそこから安南将軍に昇進しており、
安南将軍は馬忠の例を見れば、鎮南大将軍という、
驃騎将軍等に次ぐ将軍位への昇進も可能なものであって、
翊軍から征南にいったって不自然は無いと思うよ。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 23:22:57 ID:a8Ay37JH0
張飛は下弁での一戦の失態。劉備の運用法として結果を出せば昇格
失敗すれば降格ないし重責を他に任せるというパターン。
張は張コウを退けたがその後217年上の失敗をしたため本来彼の仕事を魏延が
遣ることになった。

黄忠は蜀では最高レベルの功績をもらっても全く不思議はないだろうな。
官職は単に計算化したような実績の積み重ねを表すものじゃないし、
対外面での誇示も当然あるだろうし。

九品中正てそんな単純に定義付けできんの?4品以上なんか明確に。
俺もあの本読んでないからわからんけど。
まぁ検索すれば、石含め誰かが書いた対応表みたいなのはでてくるけどさ。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 04:47:22 ID:1Hd+MDv1O
何にせよほう統が生きてれば趙雲と守ってるはず

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 05:49:49 ID:zvZonXLA0
>>112
下弁の失態って、馬超も同伴してたやつ?

>>113
趙雲はねえだろ、いくらなんでも。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 09:34:36 ID:hFtrZqgyO
たしかに、趙雲はないわな。
張飛と縻方なら納得するだろうよ。
荊州が維持できるかどうかは解らないがね。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 14:13:24 ID:TGouezC80
>>113
趙雲って劉備が皇帝になるまでずっと下っ端の将軍、
劉表の配下として実績があった黄忠は元より、
兵卒ぐらいから成り上がった魏延よりはるか下だから。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:29:26 ID:tOmSXNU/O
>>113
策謀に長けたホウ統と組ませるなら張飛だろうな。
趙雲だとホウ統にいいように使われるのがオチで
劉備側としてはホウ統の離反独立を警戒せにゃならん。
(ホウ統にその意思があるないにかかわらず)

そうなると張飛あたりと組ませて牽制する必要がある。
関羽だとホウ統と喧嘩になる可能性もあるし。

まあ「生きてたら」の話だけどね。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:38:06 ID:ZpZxIhfZ0
ここよんで分かったんだが趙雲ってけっこう位低かったんだね(´A`)
かるくショック

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 15:57:04 ID:fHVcANqqO
てか黄忠って特別すごい武将でもないだろ

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 16:04:07 ID:6DjCEley0


121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 16:34:52 ID:aF6IWUGl0
>>119
記述が少なすぎて、凄いのか凄くないのかすら解らん

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 17:36:46 ID:yiJdMSqq0
記録で残っていない部分で凄いものがあった可能性。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 22:48:26 ID:KNtUiLnhO
劉キさえ長生きしてたら万全だったのにな。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 03:02:38 ID:6rCjXYXTO
劉封以上にないわ。
仮に壮健だったとして、いや壮健ならば尚更。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 07:29:10 ID:EBW9STTI0
ここまで読んでみたがなかなか面白かった。
俺が皆の意見を読んだ限りではやっぱ関羽がベストっぽいな。
荊州維持については人事でどうにかできる問題ではない感じだね。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 08:58:58 ID:gppGDiBVO
俺は魏延に任せたいな。
張飛を押さえて要地漢中の太守を任されたことから、劉備からの信頼+本人の実力がわかるし。
本人も荊州出身だからやりやすいでしょ。
だから魏延と荊州派の人々で旧劉表軍みたいな感じで。

てか元々、関羽が関平とカップリングで攻めなきゃ良かったとも思う。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 11:40:06 ID:h7SRG6bC0
>>125
ベストというか、現状ではそれより優れた選択肢がなかったというか。

荊州維持に関しては、あの時点で北上した時点で間違いだからな。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 23:47:25 ID:oG7cgQHd0
曹操陣営のジョジョを策か何かで無理やり引っ張って来て関羽の補佐。
ジョジョ本人は建前を気にしてるから、誘拐やら何やらで既成事実を作って、
世間的には「ま、しょうがないかその状況じゃ」って形にする。
黒い策なので法正あたりに実行させて

「そのような策は好まぬ」
「殿の大事の為には時として非情にもならねばなりません」
「むむむ」
「私も法正殿に賛成です」
「孔明もか・・・いたし方あるまい」
「あまり深く考えなさらぬことです」
 
風にすれば横山先生的にも問題なし


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 23:53:29 ID:oG7cgQHd0
陣営の中では劉封かな。
ネームバリュー(蜀での)で関張に匹敵しそう。君主の息子って事で。
馬超は北方の方が有用できるし、孔明法正は蜀科に必要だし、張飛あたり
上庸らへんにおいて、有事の際助けさせると。
張飛なんか危機になったらちゃんと飛んできそうだし。しかもあの頃の張飛は援軍に向いてそう

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 00:07:44 ID:1FsAY3XX0
さらにレスすると、劉備駐屯意見に関しては、素人考えから見て
前々から本拠地に分捕ってやろうと考えてたのが蜀であって、それが成就し
本拠地が蜀である訳で、漢中ケイ州は有事の最前線なんだろ?
曹操が合肥に駐屯したりする様なもんで危険極まりないと思うが・・・
考えとして劉備以下全員の頭にはなかったと思う。君主は首都にいるモンだろう。



131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 20:45:30 ID:1xKUhsDs0
厨臭さ全開のスレだな

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 13:59:41 ID:v8h9YvF50
関羽以外荊州を守る適任者がいなかった。廉頗や趙奢のような守備撃退
のプロ、三国時代の張遼や徐晃のような連中でもあの状況と国力で守備
と攻勢を両面で行うのは至難。

彼らに及ばない関羽にどうしてできただろう。

君主が首都にいるのは平穏な時くらいで、長期統一政権の皇帝ならまだ
しも非統一政権なんか緊急時には自ら前線へ出張る 親征は普通にやるし
やらざる得ない。危険だが士気上げには強力に有効。だが負けて捕虜に
なったりその後殺された皇帝もいる。

劉備がケイ州に駐屯しても彼の頭に攻勢の2文字がある以上敗北が約束
ずみ。 呉は揚州という過疎地帯をしょってる以上絶対にケイ州は奪回
する必要があるしその大義名分もある。

結論として関羽しかいないが仮に劉備が守っても同じ結果となる。
ケイ州を攻勢を掛けつつ守るというのは蜀の国力では所詮不可能であった。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 12:34:03 ID:Um4MC3IN0
BSジャパン 10月7日(日)10:00 [新]中国歴史ドラマ 関羽

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 22:12:38 ID:rX9pln+T0
レンパを抜ける武将は三国時代に存在しないだろう

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 22:16:56 ID:UvYc0SCb0
極端なこと言っちゃうと
関羽であっても北上させずひたすら江陵守備。劉備も北伐を諦めて危急時に
すぐに援軍に派遣できる体制を整えておく。これなら荊州も失わなかった
だろうと思う。

逆に北伐を考えるのなら孔明の陸中対ですでにあるように呉との同盟・友好
関係が絶対不可欠。それが成しえないのなら、関羽の変わりに趙雲だろうと
張飛だろうと魏延だろうと劉備本人だろうと北伐は無理。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:38:42 ID:hwLSGBbB0
廉頗は、後ろの王さえ馬鹿なら抜ける。史実でもそうだしな。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:40:40 ID:D3QmKwqU0
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138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 19:09:49 ID:2UZ+ysZb0
>>135
孟達あたりとの連携が今ひとつ無かったのも痛いな
もし彼らの弁明通り上庸が不安定だったのならば、
安定するまでは無理な遠征は絶対厳禁だったと思う。

139 :臣 姜維曰く:2007/09/30(日) 00:47:42 ID:px7pW+ba0
基本は
成都 劉備、劉巴、黄権
荊州 関雲、馬良、孔明
漢中 魏延、法正、黄忠  
遊軍 張飛、趙雲、馬超
趙雲、馬超、黄権は街亭を取り、魏延、黄忠、法正は長安攻略し
長安取った後、趙雲(守りのは得意)を太守し、補佐に法正、黄権。
張飛を漢中に(馬超を見張るため
魏延、雷銅、呉蘭は上庸に
劉備、黄忠は信陵に移す、成都太守は蒋碗に
関雲、孔明は曹仁攻略、と同時に劉備は江陵、黄忠は公安に。(呉を牽制
曹仁を倒した後、江夏攻略、江夏取れたら呉を恐れることはないと思う
士元兄、君の死は決して無駄じゃない



140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 00:55:08 ID:bYXsYH6Y0
関羽は攻めには強いが守りには弱かったんだろうな。
守備ではなく、攻勢に出られる場所に配置すればよかったと思う。

141 :臣 姜維曰く:2007/09/30(日) 00:59:30 ID:px7pW+ba0
>>140 孔明が後詰するから問題ないと思う

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 02:23:15 ID:mq36XgJH0
>>135
荊州を防備一辺倒にするって感じだね。
同時に上庸を安定させたり、蛮族を帰属させたりしたら北伐が出来るだけの国力が手に入る。
劉備以下の年齢がネックになるけど、それを除けばまずまず良い案だと思う。
ていうか、これ以外に荊州を保持できる現実的な案ってあるだろうか?

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 04:09:13 ID:onSQKTY70
関羽は攻めは、当時名将の位置に居た于禁を降伏させて、
ホウ徳をぶっ殺してますからね。


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 10:35:53 ID:EHQLQOl2O
于禁の軍は洪水で孤立して、関羽に敗れたようだけど
関羽の軍はどうして洪水から逃れられたのだろうか
案外洪水は演義のように、関羽の計略だったんじゃね?

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:19:41 ID:x6aWhIxC0
カンウとチョウヒの両人が守っていたらだめだったの?
カンウとチョウヒがお互いを補完しあえばよい。
漢中平定後のカンウ荊州統治時代後半ってチョウヒはそんなになんか表立った仕事していたということもないし


146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:23:54 ID:x6aWhIxC0
カンウに荊州統治を指示したのはカンウの名声が天下に知れ渡っていたことが大きいだろ。
曹操に仕えていたこともあり、その時には実績も残している。曹操家臣団からも知られていて一目置かれる存在。


147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 19:22:18 ID:onSQKTY70
関張、両方手放したら漢中が危ないだろ、
魏延は成長、黄忠は老体、馬超は夷族に使用途中。

駒が足りんのだよ。駒が。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 19:23:27 ID:onSQKTY70
魏延は成長途中ね。オレも途中でカキコしてましたーっと。

149 :臣 姜維曰く:2007/10/01(月) 00:44:43 ID:uEMOetgP0
>>139 上策

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 01:58:52 ID:qPDMnhbKO
>>149
自画自賛してバカかオマエw

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 19:13:01 ID:9rK5Pu530
>>150
名前を消し忘れたんだな・・・
そっとしといてやれよw

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 20:58:18 ID:J1gH0Q150
>>149
これは恥ずかしいwwwww

153 :臣 姜維曰く:2007/10/02(火) 00:06:39 ID:Gi0AD0gz0
自画自賛ではない、これよりいい策あるなら是非

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:11:58 ID:aOpycWil0
自分で自分を褒めるから自画自賛って言うんだよw
意味分かってんのか?

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:38:45 ID:Ijuuexkc0
彼のn番目の人格が彼を褒めたのだから自画自賛ではない、と弁護

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:44:38 ID:P/S9wRmKO
>>153
これは>>149以上に恥ずかしいwwwwwwww

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 00:45:23 ID:ekn25hwc0
絵に描いた餅を策と呼ぶとは初耳

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 02:28:49 ID:ux88mfEH0
>>153
>>135の上段と>>142でいいんじゃないの?劉関張三兄弟以下の寿命が心配だけど。
君の言う上策、街亭を取るとか長安を攻略するとか簡単に言ってるが、そんなのどうやってやるのか聞きたい。
取るのは100歩譲って出来たとしても、そこの鎮撫はいったい誰がするの?
その間の魏呉の動きも気をつけないと駄目だよな。その手当ては?
少なくとも、これだけの疑問が出てくる。そんな作戦を上策とは言わないよ。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 03:20:16 ID:dlsne24lO
ヒント ゲーム

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 09:32:26 ID:8jCv0d7s0
蜀の桟道見たら、蜀に割拠した勢力が、天下を狙えるとは思えなくなってしまうw

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 10:40:27 ID:Yw8u2ST20
魏内部で反乱を起こさせ、反乱と同時に関羽北上。于禁を降らせホウ悳を斬る
もちろん関羽側も呉の方針転換を知らずに北上したわけでもなし、警戒をしていたものの
要注意呂蒙に代わりいまだ名の知れ渡っていない陸遜、当然攻める兵は多い方が良いので守兵を削って投入
でもこれは戦略で呂蒙は南郡に侵入、戦わずして降伏。さらに連絡路を遮断
退路を絶たれた関羽は篭城、突破を試みるも捕まり斬首
ってのが概要だと思うんだけど、関羽よくやったじゃん
この戦いのせいで関羽が統率70台とか言われるの見ると腹立つ

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 16:28:59 ID:YlhUhBogO
>>161

つーか呂蒙が優れてただけ
荊州守ってたのが関羽じゃなくてもあの状態じゃ守り切れないだろ

魯粛が死に、呉の戦略が対劉備強硬路線になった時点で詰んでたと思いますが

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 19:14:52 ID:aOpycWil0
>>161
関羽は基本的に攻撃型の武将なんだよ。
攻めなら天賦とも言える才能を誇っていたのは
荊州北上時の破竹の快進撃でも分かるはず。
曹操がその武威に恐れて遷都まで考えたのだから
呉の横槍が入らなければ確実に荊州一帯は関羽軍が占領したはず。

ただ、戦はそれだけじゃない。
守備もまた重要事項。
事前の対応で呉との同盟強化(荊州南部を返還+関羽と孫権の子の婚姻)など
を計り後ろから攻められないようにすればよかったんじゃないかな?
そこまですれば、孫権側としても強行して同盟破棄をすれば節操なき国と
評判を落すことにもなる。
狼煙台を作り、危急の難に備えたのは見事だったが、そこは呂蒙の方が一枚上手だったというしかないな。
関羽には優秀な外交官が補佐に居ればよかったと思うよ。




164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 20:05:42 ID:8kN6odIe0
>>163
そこまで言うと、贔屓しすぎだわ。
呉と関係なく徐晃には負けているし、後詰で曹操本軍と夏侯惇26軍が来ているのに
正直、荊州を取れるとはおもえんが。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 21:03:34 ID:pqVe2Grg0
曹仁包囲、于禁撃破までよかったけど徐晃に敗れてるんだよね。
もし徐晃を撃破したらそのあとは夏侯惇軍、おそらくは張遼が出てくるから関羽オワタw
徐晃を撃破して曹仁も斬って襄陽とハン城に立て篭もっても夏侯惇は曹操本軍と合流して包囲して関羽オワタw

仮に呂蒙が攻めてこなくても関羽はどこで戦を収めるのか、それが独力でなし得ないから結局どこかで負ける。



166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 21:07:37 ID:XbKVS/3t0
そもそも演技では関羽の策略とされている于禁軍の水没が違うからな。
正直、ガチ対決だったらそこまで襄ハンを囲むところまでいけたかどうか?

関羽にとっては僥倖だった自然現象だが、結果論になってしまうが蜀に
とっては致命的だったな。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 23:55:40 ID:aOpycWil0
でも、そこまで勢力を結集させると今度は漢中方面がやばくない?
まあ、推測の域を出ないが呉との同盟を強化させていれば魏は関羽を撃つために
総力を結集し討ち果たすか、荊州を放棄して全体の守備に徹するかに迫られような気もする。
あの時点では劉備軍にも勝ち戦の勢いがあったからね、軽くは見れないと思う。
おまけに魏国内にも反逆を促してるから全軍総力で関羽には当たれないでしょ。
徐晃のみならず、夏候惇や張遼までが来るとなると魏の一線級勢揃いで関羽に当る構えだったってのも
よほどの緊急事態だったんだね。

>>166
正史ではたまたま洪水が起きたらしいけど、関羽は事前に水陸両軍で攻めていたから
恐らくアドバンテージは関羽側にあったと思うよ。



168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:14:33 ID:TLJ0WYri0
>>167
魏は荊州北部を失うことが出来ないから総力戦だったのよ
関羽は南郡北部と南陽の南部制圧で戦が終わる局地戦とでも分析したのか・・・
漢中に動きが無い関羽の単独行動であった以上、魏の総力を相手するのは必然だと思わないか?
夏候惇を動かしたのは明らかに呉侵攻の危険性が少ない、
あるいは重要度が寿春合肥方面より荊州のほうが高いと判断したわけで

3つある魏への侵攻路のうち1つが非常事態で1つが危険度低下で1つが小康状態。
となれば当然の成り行きでこういう形になる。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:27:16 ID:XKT6OgDE0
関羽も荊州北部を取れたら
次は魏の首都に狙いを定めたろうな。
そうなれば、漢中側と呼応して両面から圧力をかけられた。

で、もし関羽方面に敵を集中できたら
当然、小康状態と思われてるのをいいことに
漢中から一気に関中へ攻めあがってくると思うぞ。
やはりあの時点では呉を突き動かした司馬イの大ファインプレーが
魏を救ったのかも。

なにを言っても過ぎ去ったことで不毛だが
こういう妄想を掻き立てられるスレは楽しいなあw

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 00:59:36 ID:TLJ0WYri0
呉ウンヌン漢中ウンヌン以前に徐晃に敗れてるんだってば・・・

仮に呉が動かなくて、関羽が体勢を立て直して再度、徐晃曹仁に攻勢を仕掛けることができても
そのころには既に夏候惇軍が到着して駆逐されるでしょ。

将棋でいう詰みの状態なのが北上した関羽。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 04:00:22 ID:IUfeBvvM0
>>170
徐晃に敗れた後でさえも襄陽は包囲していたし
兵を引いたのは呉の荊州侵攻後だよ。
それに呉と盟約を結べたから楊州から兵力を引き剥がせた訳で、
曹操が荊州へと向ったのも孫権からの使者が来た後。
だから呉が協力を約束しないと夏候惇はまず動けないし
徐晃への兵力増強さえも出来ないかもしれない。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 04:18:24 ID:IUfeBvvM0
>>166 167
関羽伝じゃ偶々って書かれ方だけど、温恢伝じゃあ
「大雨の兆候があるのに曹仁は準備をしてない、利に乗じて関羽が攻めて来たらヤバイ」
って言ってるから決して偶々じゃないと思うよ。
そもそも自軍を船に乗せて大雨洪水の中を動き回り、そして于禁軍三万を収容出来るくらいの船を用意してるし
さらには于禁軍を収容するとは別に樊城に対して船を使った包囲網を敷いたりと
実にスムーズに動いてる訳で、偶然だとすれば準備出来すぎでまずありえない。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 06:06:58 ID:UJRXWR9E0
徐晃の兵力は北方のだから呉とはあんまり関係ないな。
包囲を続けられたのもに守備兵まで使っていたのがあるしな。
守備兵がなければ徐晃はもっと早い時期に関羽を駆除できてただろうし。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 08:38:22 ID:V253rqQM0
徐晃は早期に戦域に到着しながら当初はまったく手が出せなかった。
既に敵の兵站は守備兵まで使って一杯一杯だったにも関わらずだ。
時間を掛けると劉備本隊が回復してしまうリスクがあるので、かなりギリギリの線だった。
魏の国力からすれば首都圏(河南)の正面玄関(荊北)を守れるのは当然だろう。
問題は関羽の陽動で周縁部の関中〜西涼や淮南〜山東が切り取られかねなかったということ。

その危機の原因は曹仁、于禁、龐徳、徐晃らが頼りないから
曹操や夏侯惇、張遼といった大駒が関羽一人に引き付けられた結果だ。
徐晃が相手を駆逐した時点の兵力は曹操本隊のが大半だから、
「守備兵がいなければ〜」という仮定は全然頷けない。贔屓と過大評価が過ぎるだろう。
関羽の敗北は本拠をがら空きにしたことと、それによって呉の西進が生じたのが、ほぼ全て。
確実に勝てる戦機をものにした徐晃は間違いない良将といって構わないが、
それが魏にとってベストの結果だったとは思わん。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 10:09:05 ID:SRK81O1U0
結局このときの兵力ってそれぞれどのくらいだったの?

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 12:56:53 ID:SsBK/nxt0
黄忠おいとけばよかったんじゃね、あと魏延、軍師は馬良で
3人とも荊州派閥だし適任だと思うが・・・・


177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 13:29:56 ID:V253rqQM0
その三人を荊州に持ってくるより
呉に娘を贈呈した方がよっぽど効果あると思うよ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 16:55:07 ID:iMtb20+N0
>軍師は馬良で

はいはいゲームゲーム
って言われたいの?

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:01:31 ID:XKT6OgDE0
>>175
演義設定なんでそこまで頼りには出来ないが
于禁、鳳徳軍は総勢7万6千くらい。
>>170
曹操に派遣された于禁、鳳徳軍は確か関羽軍より大軍だったはず。
「数があれば潰せる」なんて思うのは軽率でしょ。
仮に夏候惇軍が加わってもそれほど変わりはないと思う。
背後の本拠地を突かれたからこそ、挟撃の体勢を取れて
関羽軍の致命打となったわけだし。
討たれたならともかく徐晃に関羽が敗れたなんてのは
決定的な敗因ではなく単なる関羽個人の敗走。
大局には影響はないよ。


180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:19:22 ID:IUfeBvvM0
>>173
徐晃の兵力が北方のかどうかは不明だと思うけど。
それよりは曹操が漢中から帰還した後に徐商・呂建らを派遣し、
包囲網に結構近づいた後に殷署・朱蓋等を派遣してることから
北方よりは曹操が指揮する本軍から軍勢を抽出してるんじゃないかと。
徐晃の派遣が8月、10月に孫権からの使者が来て→自分も出発→到着前に徐晃が関羽撃破
っていう流れだし、孫権からの使者が来た後に殷署・朱蓋等とかは増強されたのかも。
そう考えると孫権の使者が来ない状況では遷都の可能性を考えて
十分な兵力を徐晃へと回せない可能性も高いと思う。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:34:34 ID:zHh+QOAs0
元々、孫権が動かないと見て関羽のほうが先に兵力の増強を図ってるわけなんだが。

しかし、夏候惇の二十六軍て凄いな。
于禁ですら7軍なんだから、魏の主力は呉に備えていたんだろうな。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:39:29 ID:XKT6OgDE0
でも、精兵は曹操が独り占めしていたという話もあるな。
徹底的に中央集権に務めた結果、曹操軍以外の兵の質は結構落ちたらしい。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 19:51:22 ID:zHh+QOAs0
精兵というより、青州兵の存在がでかいんだろな。
こいつらが参加してない戦いは勝率が今ひとつだし。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 20:20:01 ID:IUfeBvvM0
>>175
ハッキリと記述されてる数は
・于禁軍の援軍は7軍、降伏後の捕虜は約3万
・落城寸前の樊城に篭ってる曹仁軍は人馬数千
・徐晃(兵数不明、新兵多し)は徐商・呂建(共に兵数不明)に+して
 殷署・朱蓋ら合計十二の軍営を援軍に追加してもらった。
・対する関羽が動かせた、包囲を除く兵数は5000。

以下推測
関羽側は呉との戦の際、劉備の助力ありで3万の軍を動かせた。
そのときと比較して荊州領は減ってるし(後漢の人口調査を基にするなら戸数半減)
それから兵力を増強したとしても1万〜2万前後ってところか?

対して曹仁側は行征南将軍の曹仁の管轄が南陽と襄陽なんで、
これに後漢時代の戸数を適用すると領土的には関羽より上になる
けど侯音の叛乱があったのを考慮するのと=で見積もって良いのかもしれないが
恐らくこの時期にホウトクが援軍として来たであろう事も加えるとやっぱり兵数的には関羽<曹仁の可能性が高い。
ただし関羽が北上すると于禁が沈む前には襄陽は包囲されてるからそれまでに減り、
樊城で対陣してる時点では樊城内数千+城外のホウトク軍、と援軍の于禁軍約3万っていう布陣になるのかな。
全部を総計すると曹仁軍(ホウトク含む)+于禁軍で6〜7万、徐晃等を合わせると10万を超えてても不思議はない。

夏侯淵が破れ、曹操も漢中から撤退後という事を考えればかなり深刻な被害を受けてるね
特に于禁軍が全滅して3万が捕虜になってるのは『1割死ねば大敗北』理論で言えば目茶苦茶でかいね。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 20:45:59 ID:zHh+QOAs0
>>184
その計算のしかたはどうかな?
魏では反乱が起きていて、関羽の援助をしていた者が多数いて
それの討伐もしていたわけだし。
関羽軍+侯音・衛開+梁・陸渾で計算すると同数かもしくは
関羽のほうが兵力的に多いかも。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 21:11:21 ID:IUfeBvvM0
>>185
侯音・衛開の叛乱は手勢数千程度で梁・陸渾も県レベルの群盗。
曹操が遷都を実行すればさらに大規模な叛乱へと発展した可能性はあるが
あの時点では大した規模じゃない、注目されてせいぜい孫狼くらいでしょう。
また全体的にすぐに鎮圧されてるし関羽指揮下かどうかも微妙であり
全体で数万くらい差がある関羽の方が兵力で多くなる程の数は無い。
包囲されてる襄陽に篭った兵力とか、曹仁側も微妙そうな兵数は省いてますし。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 22:13:12 ID:Rt9aQpyU0
この話のたびに思うのだけど、この時期劉備本軍はなにをしていたの?

188 :臣 姜維曰く:2007/10/03(水) 22:46:56 ID:bpkV8Ht30
>>158  まず趙雲と黄権は街亭をせめると見せ掛け。魏延、呉蘭、法正らは
子午谷出て長安に奇襲をかけ、長安とって食料を確保。よって街亭は戦わず取れるでしょう
長安太守は趙雲し、補佐は黄権、法正。よって民衆も安心出来るだろう
魏は孔明(守る、関雲(攻める が見張るから問題はないと思う
呉は劉備、黄忠、馬良らが信陵から見張る、様子をみて出撃するか馬良を呉に派遣するか
以上、僕なりの見解でした、如何でしょうか 宜しくお願いします

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 23:06:00 ID:NvvMC0Nm0
>>188
上策だとかどうとかって話の前に、具体性に欠けるから議論のしようがない。
場所と人物の名前だけ書いたって意味は無い。

時期、各軍が率いる兵力、用いる道路、消費する物資の量の概算と輸送手段の決定、
敵の兵力や援軍等の到着時期などのできる限り具体的な予測、
全部を考えるべきとは言わないが、戦略上の要素をある程度具体的に示さないと議論できない。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 23:47:44 ID:XKT6OgDE0
>>185
さすがにそれはないだろう。
反乱といっても、兵と呼べるほど上等なものとは
限らない。
ただ、内部からの揺さぶりというのは非常に効果的だったと思うよ。
蜀が常に寡兵で戦うのも人口の少なさから必然のようなものだしね。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 00:52:37 ID:hVG/UiLZ0
>>188
貴方の脳内には人名(武力??-知力??-政治??)の細やかなデータが入ってるのだろうが、
それはこの種の考察では無意味だから破棄した方がいい。
あれは雰囲気は結構掴めるけどそのまま鵜呑みにすると馬鹿にされるからな。
もちろん力関係の比較は不可欠だが、ある一定の実績を持ってるならば、その将才には大差がない。
常識的にどんな名将でも二倍以上の戦力差を常に覆し続けるのは不可能。
逆を言うならば使えない迷将でも相手の二倍以上の大軍と兵糧を一緒に置いとけば、どんな名将相手にでも時間稼ぎくらいはしてくれる。
だから219年の問題は幕僚の配置をどうこうするだけで勝てる訳じゃない。
それに付随する軍隊やその戦力を維持する為の兵站の方がはるかに大事。

兵站を考えるなら『後漢書郡国志』や『晋書地理志』が『水経注』、
戦略を考えるなら『戦争論』や『戦争概論』が参考になる。
非常識な過大評価、過小評価というのは狭い範囲しか知らないことが原因で起こるので、
他の文明圏、時代の戦史も見た方がいい。
買うカネも見る暇も無いならニセクロ氏や大澤良貴氏、三戦板の後期スレのJominian氏の雰囲気くらいは理解しなければならない。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 04:12:13 ID:K1a3Rmx7O
>>189>>191
攻めると見せ掛け、見張るから問題はないと思う。
なんて絵空事言ってる人にはこの手の議論は高度すぎではないかな?
しかもクラウゼヴィッツ・ジョミニ・リデルハート辺り
を理解しろなんて無茶だよw
孫子・呉子辺りでも理解できるかどうかも怪しい。
>>188
191氏が親切に提案してくれてるのでここを一応は読んでみて。
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/index2.htm

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 10:05:51 ID:nRwigat20
蜀漢の長安攻めは当時最高レベルの知能の持主が断念した事なのに
現存する史料の限定的な情報だけ使って今の視点から「○×すれば成功した」
と論じる事ができるんかといつも思う。IF想像の楽しみに水差すようだが

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 16:40:46 ID:IEwuMsCdO
スレの主旨としては関羽以外の人物で荊州を統治させた場合の予想だからね。
まずは適任者を選定する議論に戻ろうじゃないか。

候補者リスト
1、劉備
2、張飛
3、李厳
4、魏延

この4者ぐらいかな?名前が挙がったのは。
自分は劉備の直率以外にないと考えます。
魏延では実績が足りないし李厳では信頼しきれない。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 17:21:10 ID:3/0huncv0
つーか白眉に趙雲と李厳付ければ守りきれた。あくまでも攻めないと言う条件で。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 17:52:00 ID:rIZkkJELO
>>195
お前の中でその三人の上下関係はどうなってるわけ?

光栄三国志準拠で話したいなら歴ゲーか三戦板いけよ

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 19:17:07 ID:6WaMwCT00
>>194
それ、実質、1と2しか選択肢無くねーか?

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 19:29:35 ID:hVG/UiLZ0
つーか劉備や諸葛亮主導で対呉外交を確実にすれば、別に関羽でも問題無し。
誰がやろうが、荊北に出ようが、南郡に篭ろうが、
外交上、二対一になってしまえば蜀の荊州失陥は確実。
呉と魏がどれだけその縄張りを切り取れるのか、という違いしかない。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 20:23:32 ID:Uz0R3r9E0
関羽が荊州で蜀の出先機関としてではなく全権委任(多分)されてたのはなぜかから
掘り起こすべき問題じゃないかな

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:42:06 ID:/ssdmR3T0
当時の蜀漢の国力では孟珙ぐらいの名将じゃないと荊州を保つことなんて不可能でしょ

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:46:19 ID:YQobp5bR0
全権ではない。

太守はじめとする内務の任命権もなければ外交権もない。
関羽は荊州の軍事統括であり責任者。

孫権との姻戚関係だって、(虎の子がどうのとか抜きにして)関羽からしたら越権行為にも取られかねないから蹴ったのはあたりまえ。
そういう話は劉備抜きには出来ないことだったことなんでしょ。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:50:27 ID:IEwuMsCdO
>>199
それは劉備軍閥の重鎮としては関張の二人の存在が絶大であり
劉備自身は益州統治に専念できるように委託したんじゃないだろうか?
劉備にとって関張はまさに飛車角であり、いずれは三方面からの進撃も予期して
まずは関羽に荊州を任せてみたかったんじゃないだろうか?
領土が拡大すれば必然的に方面軍の総督を養成しなければならないし
その筆頭には文句なしだろう。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 00:05:13 ID:IZHjpFmp0
>>201
それはその通りなんだが、同時にいつも出される反論が
「提案を蹴るにもやり方があるだろ」
というもの。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 03:13:42 ID:Pvb6hQ2j0
関羽は動かすのは難しいだろうからちょっとスタッフで何とかならんかなと思った。
蜀の荊州閥で筆頭って言うとやっぱり諸葛亮??
ショウエンとか面白いかなと思うけどまだ若手だったろうし、
そう考えると馬良というのは蜀にとっては切れる最高のカードであり、
人事としては悪くはないように思う。

結局、?統を失ったのはやっぱり痛かったなということになってしまう。
もっと言うなら劉埼が早死にしたのも痛かった。
せめて彼の子供でもいれば状況はかなり違ってたんじゃないだろうか。
俺が知らないだけで居たのかもしれないけど。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:37:59 ID:d8yg/7UC0
やはりこの話は

・対呉政策

結果的に二正面作戦になってしまったが、これを修正するにはどうするか、戦略的な施策

・北上作戦

魏内部の乱に呼応するために北上したのだが、これが是か非か・・・
是なら是の関羽が実際に取った行動よりベターな案を、
非ならどのような代案があったのか、戦術的な問題

・防御作戦

関羽(もしくは他の誰か)が北上するとして、どのような守備配置・迎撃案が考えられるのか、
これに付属する人事問題はどのように処すべきなのか戦術的でもあり戦略的な問題点



この三点から思考して議論しないといけないことは、いままでの流れから確実だと思う

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:58:07 ID:d8yg/7UC0
このスレタイの趣旨である関羽のポジションに誰が就くのかという議論はおおよそ絞られている

・現実的であり可能性が高い
関羽
張飛

・可能だが問題点が多い
劉備
魏延
黄忠

・ほぼ不可能
馬超
趙雲李厳など


次にこのスレの話題の副趣旨であり語られている・・・
誰が太守などの地方行政長官であるべきか
誰が関羽軍に属する軍事関係者(部将・参謀・兵站等の後方支援←これは太守の関わりも多い)であるべきか、という話題

・士仁/麋芳問題
・馬良/黄権/法正等の「参謀」問題(馬良は知られている限り外交官であって軍務には疑問が大きい)現実には趙累が所謂「軍師」

なおこのスレでは突発的に「法正」「諸葛亮」など大御所の名前が出るが、
一体どういう役でどのような任務を担うのかがまったく触れられないのは厨レスとして無視される傾向が高い。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:28:38 ID:d8yg/7UC0
219年の荊州のまとめ

・同年予ねてから返却(譲渡)要請していた荊州に呉が侵攻
・同年劉備は長沙・桂揚・零陵を電光石火で奪われる
・後に零陵は返還されて劉備の荊州領地は南郡の南部と合わせて三郡になる
・215年時点で関羽の総兵力は3万である

・216年呉は合肥方面からの侵攻を諦める?

・217年呉は魏に対して表向きは臣従する
(ここで呉の対外政策に大転換があったのは確実)
・同年に親劉備と言われる魯粛が死ぬ
(親劉備と言われる魯粛が存命中ですら劉備攻撃を開始してることは特筆すべき)

・218年前後に侯音や吉本が魏領南郡北部で乱を起こす
・同年関羽がこれに呼応?

・219年関羽が北上開始
・呂蒙が病気と称して陸遜が後任につく?
・関羽が守備任務の兵までも攻勢に動員する
・関羽は襄陽と樊城を囲み、于禁を捕らえて?悳を切るが徐晃に敗れる
・呂蒙が帰ってきて侵攻開始、公安江陵などはほぼ無抵抗で降伏
・関羽麦城から突破を試みるが敗れて切られる
・荊州は完全に劉備の手から離れる

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:41:09 ID:wmyZ2T2W0
220年
曹丕が襄樊から宛へ曹仁を撤退させる
孫権が襄樊を占拠
陸遜が魏?のケ輔、郭睦を撃破
秋、魏の梅敷、住民三千戸が呉に帰服
襄陽を守っていた呉の陳邵が曹仁に駆逐

221年
四月、曹仁が襄樊を巡る戦功で大将軍に任命される。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 11:44:33 ID:d8yg/7UC0
>>95の改編

◎長安     宛城へ
|        ↑ 
|漢中     ○ハン城
○-----○----◎襄陽
|   上庸  | 
|成都      ○江陵------○江夏
◎--||--○----◎公安-----○陸口
    永安   | 洞庭湖 /
       ○--○益陽---○長沙
      武陵 |    / |
          |   /  |
          ○零陵   ○桂揚(陸の孤島)
          (陸の孤島)

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 12:21:18 ID:d8yg/7UC0
http://www.arachina.com/attrations/sanguo/images/dt/1.gif

地図を探してみたけど高低の地形が表されているのは少ない・・・
それがないと「長安を攻めれば」と安易にレスつけたりする人が一向に減らないし、
益州と荊州の連絡の難しさや、河の交通がよく理解されないと思う。
これみて州の広さや陸の孤島という意味がよくわからないなら実際の世界地図と合わせてくれい


211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 14:18:06 ID:eqktvenh0
>>205-210
まとめ乙。

対呉は江陵を渡すか敵対かって状況じゃないの?
呂蒙・陸遜を抑えられる何かがあればまた別だけど。
呂蒙は置いといて、陸遜対策に山越でも扇動して足止めしてみる?
北上時点で扇動できても、制圧された直後だから大して効果は望めないし、それ以前に蜀に扇動できるかって問題もあるけどね。

北上は非だと思う。
確かに絶好の機会ではあるけど、呉の突発的侵略からの荊州情勢を軽視し過ぎだし後背を信頼し過ぎ。
3郡なら3郡で良いから、残った領地を確実に統治する事が最優先だね。
侯音・吉本は関羽が使者を送るなりして、軽率な行動に出ない様に宥める。吉本とは連絡取れないか?

防御については、まず呉との国境線を明確にする事。
上の地図を見る限り、湘水以西が蜀らしいので、そこを重点的に守る。
最悪でも、3郡は確実に保持できるだけの兵士と兵站を準備する。
更に、山越と連絡が取れる様なら出来るだけ好条件を出して手懐ける。
同時に荊州の人士を馬良辺りに推挙させる。馬良の直属扱いにでもしておけば関羽も何も言えないだろ。
関羽がどうしても嫌がったら、劉備と孔明辺りが正式な命令を出す。
駒はこれで揃うと思うので、その中で軍事・政治どちらにも長けた奴を適当に重要拠点に置けば良い。
後は、魏・呉両国が隙を見せる時期を待って山越と侯音達に反乱をさせつつ、北上。
220年辺りが妥当かな。

以上、魏・呉両国の事をあまり考えずに荊州と関羽が勝てる方策を挙げてみた。
おかしい部分がかなりあると思うので、どんどん指摘して下さい。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 14:27:24 ID:wmyZ2T2W0
-

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 15:36:48 ID:etophlfzO
ふと思ったのですが、呉と不可侵を確約するために
人質を交換するのはいかがでしょう?

確か孫権の嫡子は孫登ですよね?
それを太子の礼で隅して人質として預かるのですよ。
もちろん人質である事をお互いに納得のうえで。





ええ、劉備側からは劉禅を出しますがw

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 17:32:30 ID:eqktvenh0
悪いけど、意味が分からない。
人質交換をして何がどう変わるの?
いつ頃それをやるの?
それをして得るものと失うものは何?
蜀呉両方が納得できる理由は何?

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 18:01:02 ID:kjmmcLVpO
担保のつもりじゃないの?
でも意味ないと思う。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 18:31:53 ID:j6AE/Uyp0
>>213
政略結婚ってそう言うことだと思うんだ。
で、関羽が断ったんだ。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 19:27:20 ID:L2AUIQ8U0
>>216
孫策、曹操間では似たようなことやってるね。
互いに相手の親族の娘を自分の親族の男に嫁がせてる。
関羽の時に同じことは出来たんじゃないかとは思う。
効果のほどは不明だけど、両国のトップ陣の不信感を
拭うことができれば案外荊州侵攻の抑止力になったかも知れない。



218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:16:55 ID:etophlfzO
春秋時代、戦国時代には王太子を人質として差し出すのは頻繁に行われていたようです。
同様に、不可侵の証左として呉蜀で王子を交換するという事です。
強大な魏に対抗するには呉蜀の同盟が必要ですし、
連携が密になれば自衛のため呉が荊州を領有する理屈も薄まります。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:35:17 ID:kjmmcLVpO
>>218
春秋戦国のそれって、相手側が強大な勢力に対して行ったんじゃないの?
仮に呉蜀が不可侵の証左の為に王子を交換してたとしても、
もし呉が蜀の王子を手土産に魏に講和とかを求めたりしたら、
目も当てられない結果になりませんかね?


220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 21:48:46 ID:etophlfzO
>>218
それを行えば孫権は人主としての信望を失います。
同盟を破棄して関羽を攻め殺すのは戦国の習いですが、
劉禅を魏に差し出すのは卑劣極まりない行為であり
孫登が報復として殺されるのは明らかです。
信義を失い、父親としての仁義をおとしめる様な策を
呉の家臣が建策する事はないでしょう。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:42:19 ID:eqktvenh0
確かにそれで荊州での戦争は一時的には収まるだろうが、蜀も呉もそれで本当に矛を収めるとは思えない。
呉には孫登がいなくても確か213年に孫慮が生まれているし、孫権も彼に期待を寄せていた。
仮に孫権や孫一族が孫登を惜しんだとしても、孫登<荊州の情勢になったらためらいなく攻めるだろう。
蜀も、劉永が210年に、劉理が212年に生まれている。
こちらも、状況によって呉に攻め込む事はありうるだろう。
そもそも、親のために子供が死ぬ事は儒学で言う「孝」の体現だしね。
それを否定する家臣はいないと思うな。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:44:59 ID:CsXRryI+0
春秋戦国の時代とは違い、三国時代には儒教の精神が生活の末端まで行き渡っている。
その儒教では子供は親の小道具にしか過ぎないよ。
終戦直後に日本を訪れた中国人が、食糧不足で親が痩せ衰えてるのに子供は健康そうだったのに驚いている。
儒教的観念では子供は親の犠牲となる事が当然なのだが、日本では逆に親が子供の犠牲になっていたから。

自分の子供を差し出すのなら恭順の意を示す事になり意味が出てくるが、
他人の子供なんてカスみたいなもんだし、差し出して和睦なんて無理な話。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 00:18:43 ID:y2hVnS5/0
話がややズレているようだけど、頭に入れておきたいのは

孫権が関羽の娘を求めたのは劉備に話を通して無い時点で離間を狙ったものだろうということ。

仮に関羽が差し出せば
「なんと関羽は劉備に無断で他国の指導者と姻戚関係になりおった!異心有りに違いない!」

劉備に話を通して差し出せば
「関公ともあろうお方が人質を差し出すとは・・・昔孫呉が曹操(曹彰)に娘を差し出したように力関係は孫>劉に違いない!」

劉備を通して断れば
「劉備は孫呉と友好関係を保つつもりはないのか!やはり荊州は永遠に返さぬつもりだな!」

結局現場独断で上げずに関羽という立場で断るのが一番いいんだよね。
いずれにしてもこの話は友好を繕っているが、かなり一方的であり裏があると考えるべき。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 01:13:02 ID:6QJiENcS0
>>223
かつての孫と劉の結婚は、孫<劉だからなわけ?いやたしかに漢朝における
官位身分としてなら劉備の方が上だがね。勢力として見た場合。

>局現場独断で上げずに関羽という立場で断るのが
その結果「劉備(関羽)は孫権を侮辱した。友好関係を保つつもりはないのか!
やはり荊州は永遠に返さぬつもりだな!」となって以下略。
これが呉の策略だとしても、だったら策略にのってしまった側の失策が責め
られる部分もあるだろうし、そもそもスレタイに戻れば、呉はもう何が何でも
荊州を獲るつもりなので関羽がどうしようが、関羽に代えて誰かを赴任させ
ようがどうにもならないということで。

あと戦国時代の人質が話題にでていたが、さすがに太子が人質になるのはマレ。
大抵は重要度の低い子供。しかも国の都合で見捨てられる率高し。始皇帝の
幼年期とか典型例。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 03:55:29 ID:c4VLF78r0
>>223
だから劉備に話を通した上で呉からも姫を出すように
要求すればよかったんじゃないの?
てか普通そうするでしょ。ぶっちゃけ呉も関羽から
こんなリアクションされるとは思ってなかったんじゃないかね。
呉が期待するとしたら
1.丁重に断られる  >対蜀融和派の発言力ダウン、強硬派アップ
2.関羽が受け入れる>離間策成功? 融和派発言力アップ?
3.劉備経由で受入 >融和派発言力アップ
4.劉備経由で断り >融和派発言力ダウン 強硬派アップ
ってところだろうけど、結果は
5.関羽にコケにされる
だぜ?孫権の面子丸つぶれじゃん。
これって関羽が呉との同盟を意に介していないってことだし
呉は蜀が呉との同盟を意に介していないと受け取りかねないので
同盟関係の維持という観点からは最悪の行為と思うけどな。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 05:41:24 ID:fiZxDCCR0
_

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 06:02:29 ID:H4WLIJ410
最高の一手を考えた。

暗殺で皇帝になった者も多いので、暗殺を提案してみる。統一皇帝では無いが…

劉備が、曹操の王即位の後に、献帝暗殺&漢皇帝を僭称実行すれば、
魏は史実より凶悪な反乱に悩まされるのは確実。そこで、関中、荊州、合肥、三面を攻める。

劉備が、献帝を暗殺する。曹操は傀儡を立てるだろうが、
劉備認めず、漢皇帝を僭称する。
関羽を楚王、張飛は趙王に即位させ上庸に配置。
馬超を涼州王に即位させる(ここの地域だと王号は何王だっけ?)

呉には呉王の位か、出来れば斉王の位を与える。
領土的には呉&斉を約束させる。荊州も欲しがったら仕方がないが、魏、殲滅後に完全譲渡とする。

問題点

1.暗殺は不可能では無いが、無理が有りすぎる。
2.反乱の規模がどの程度になるか、予想出来ない。
3.反乱の程度により、呉は味方にならない。その逆、中間もあり得る。
4.暗殺する時期を見極めるのが難しい。
5.暗殺が露見した段階で、劉備軍閥消滅。
6.悪役が劉備になるw

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 09:40:51 ID:vEdcFnXeO
話にならんな…

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 09:44:29 ID:ZRieJa/2O
>>227
さすがに「最高の一手」は言い過ぎだろう。
まだ政略結婚、人質交換のほうが現実的だ。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 11:14:34 ID:sz/3BE3o0
やたら外交面の話が出るが寿春方面の侵攻を諦めた時点で呉と蜀の対立は拭えないものなわけだが

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 12:56:42 ID:H4WLIJ410
>>228
フ、このスレに乗っ取った代案も言わずの悪態。
話にならんのはあんただな。

>>229
まあ、極論過ぎるのは認めるしかないわなw

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 14:21:32 ID:fiZxDCCR0
いや実際話にならんだろw
暗殺して即位とかありえないし、仮に帝位についたところで呉が従う道理はない。
そもそも合肥すらを落とせないのに
「斉王にしちゃえよ♪それで俺たちと仲良くしてね」とか空手形を出すのもふざけた話。
第一、魏滅亡後に荊州を呉にくれてやるなんて条件ありえない。
どう考えても次は孫権を煮殺す番ですから。本当にありがとうございました(ry
ありえないことが多すぎて「極論」にさえなってない。
そんな「戯言」をうざがられるのは当然だよ。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 14:38:17 ID:lWOmt0210
全否定された>>231涙目wwwwwwwwwww

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:19:04 ID:H4WLIJ410
>>232
プw
暗殺の後の即位があり得ないだってw
お前はただのアホゥだw
秦の胡亥とか、前漢文帝どうすんだよw
胡亥は兄貴を殺してるし文帝は、呂氏の立てた、皇帝暗殺してるぜ?

>>233
おまえシンジャエウエウエウエwwwwwwwwwwwwwwwww

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:20:40 ID:fiZxDCCR0
1:呉軍が無難に淮南〜山東に進出し、呉の対魏路線が本格化。
  魏の猛烈な反攻が予期され、必然的に呉蜀の協調は強まる。
  魏にとって難治の地でプライオリティの低い関中〜西涼は蜀の手中に落ちる可能性大。
  復漢滅魏の機運は一層強まり魏の結束は弱まる。
  呉がそこから更に勢力を伸ばすか、守りきれるかどうかは全く不明。

2:呉軍が合肥あたりで魏軍と死闘。壊滅的な打撃を受け対外侵攻に消極的になる。
  蜀は上流から圧迫を加えて自国に組み込むなり、同盟国として保護。
  隆中対の構想上、呉の勢力と呉蜀の力関係はこのレベルくらいでなければならなかった。
  史実では蜀の首脳部は呉を甘く見すぎていたのでいいようにやられた。
  まあ相当上手くいって蜀が呉を吸収して南朝化する程度。
  この場合、南北ともに決め手に欠け千日手。先に政変で崩れた方が負け。

3:蜀が罠を張って西上してきた呉を返り討ち。
  夷陵クラスの殲滅戦で呉の反蜀派を完全去勢。
  どっちにしても魏が漁夫の利を得て、大局的な戦力差は史実とほとんど変わらない。最終的に共倒れ。

つまり隆中対の構想通りに進めるには呉蜀同盟の堅持が必須。
その為には呉が合肥、寿春を下して、淮南〜山東の権益を得なければ成らない。
が、孫権がそのエリアで采配を振るう以上それは絶望的に不可能。
だから呉の西上は史実通りどうやっても不可避となる。
もし関羽が北上を断念して専守防衛に徹しても、対魏戦の継続が困難になり、
三国鼎立が恒久的なものになった可能性もある。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 15:30:57 ID:ZRieJa/2O
ちょっとトンデモ案を出してみる。

張飛を遠征に派遣してみるとか。
ルートは江夏から長江北岸に沿って合肥方面まで。
呉には南岸からの兵站線の確保と支援をお願いしておく。
魏は全力で張飛を攻撃するだろうが、そうなれば関羽が北上できる隙が生じる。

皮算用すぎるかw

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 10:42:37 ID:lyKXHE+Q0
_

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:10:54 ID:BG4EOiQJ0
>>236
ルートは別にして、そんだけ余力があるなら長安なり上庸に兵を出せばいいじゃないか。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:25:53 ID:RCpFxJHg0
ハンニバルのアルプス越えみたいに、
蜀軍が秦嶺越えして長安を急襲したら面白そう。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:48:02 ID:lyKXHE+Q0
184〜189
黄巾の乱で既に致命傷。
霊帝が崩御し相続争い勃発。漢オワタ

189〜199
董卓の専横と遷都による群雄割拠。関東と関西でそれぞれ主導権争いが勃発。
196年あたりに献帝が関東に来て関西勢力の没落が決定的に。
関東の混乱は黄河を挟んで袁曹二大勢力に収束。

199〜208
袁:200年に官渡の戦いで逆転負け。
  袁紹は202年に死んで長男と三男が争い共倒れ。いいとこなし。
曹:劉備を中原から完全に締め出す。官渡で袁紹にボコボコに追い込まれながら最後のカウンターで逆転KO。
  袁紹没後は都合よく跡目争いが袁氏勢力に起こって吸収合併。この時期はツキすぎだろw

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:48:45 ID:lyKXHE+Q0
208〜223
魏:赤壁で負け濡須で負け漢中で負け押されまくりでいいとこなし。
呉:215年、219年、222年と三度に渡って蜀をフルボッコ。呉蜀同盟の主導権を掌握。
蜀:呉の援助でようやく割拠。210年に荊州の権益を一時的に委託され、
  212〜214年に入蜀、それから219年まで漢中を巡って魏と争う。
  漢中王で関羽あぼん。蜀帝即位で張飛あぼん。征呉親征で劉備あぼん。蜀オワタ

223〜234
魏:文帝と明帝が無難に国力涵養に務める
呉:陸遜の大成と、呂岱の越南征服、孫権が即位。
蜀:孔明による反乱鎮圧と独裁体制の確立、五度の北伐

234〜253
魏:仲達の遼東征服と明帝の死、嘉平の変による司馬氏の台頭
呉:孫権の耄碌と二宮の変で呉オワタ
蜀:孔明死後の蒋費の治

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 16:50:04 ID:lyKXHE+Q0
253〜263
魏:司馬兄弟と寿春軍閥の抗争
呉:諸葛恪、孫峻、孫綝、張布の専横でますます呉オワタ
蜀:姜維の北伐と蜀の自壊

263〜280
魏⇒晋:司馬炎が指導力を発揮して呉を征服
呉:孫皓が暴政を敷いて晋の統一を強力支援
末期。つーかもう三国時代じゃないw

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 17:20:24 ID:lyKXHE+Q0
隆中対の構想には「孫権との同盟」が「荊益二州領有」と同じくらいに必要不可欠。
それを両立させるには独力で曹操の南征を撥ね返さなければならない。
しかし、曹操の非常識な用兵で江陵入り⇒荊南割拠に失敗した時点でもうアウト。
史実ではどっちの条件も中途半端なので、関羽の立ち回りがどうこう以前に最初から勝算が成り立たない。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 13:50:25 ID:Io33eZ3aO
>>243
つまり、劉表の死後ただちに襄陽を占拠すべしとの孔明の献策を
採用しなかった時点でアウトって事でしょうか?

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 14:56:07 ID:uNXcRCoj0
劉備はその時点で、南陽と南郡のそれぞれ一部を武力奪取できる兵力を保持していたようだな。
江夏は劉備シンパといわれる劉キだから、それなりの目算はあったようだ。

んでも劉備は勝てないと見込んだし、実際に逃げ出して成功してるのでなんともいえん・・・

そのIFを発展させると

襄樊を中心とした一帯を制圧して曹操軍と対峙する
同時に江夏の劉キを劉表後任の荊州牧として祭り上げて自勢力に引き込む
そして孫権に援軍を要請する(史実と違うのは戦闘の主体は劉備軍)

南郡の下半分と荊南四郡は史実通り曹操に切り崩されて掌握はほぼ無理だろう
もしかして孫権が欲を出すかもしれない
いずれにしても
 曹操を撃退して
 孫権との折り合いを上手くして
 混乱の荊州南部を掌握する
という滅茶苦茶ハードルが高い境遇になってしまうからな・・・
となると、結局劉備のその時点でのクーデターは成功しないから逃げようという判断はベターだった、と。

なにせ逃げ込んだら
 孫権が戦って撃退してくれた
 孫権も最大の危機なので唯一の協力者である劉備とは運命共同体になるしかなかった
 劉備は混乱の四郡を掌握するだけでよかった
↑たいしたもんだよ。ここが劉備の凄いところというか曹操が唯一自分と互角の人であると認めた所以と思う。
この時点で10年後の問題を考えられる奴なんて神しかいないよw

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:32:39 ID:WOpKGipr0
そのかわり、荊州に呉を関わらせることになってしまったわけだがな。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 17:30:26 ID:Io33eZ3aO
んー、そもそも仮に襄陽を奪取したとして、曹軍と渡り合えたかどうかは疑問ですね。
当時の劉備の手勢が一万ぐらいとして、それで旧劉表の所領を制圧するのは困難でしょう。
また旧劉表軍を吸収して軍勢を拡大したとしても
それらを心服させる時間もありませんから組織として脆弱なものとなります。

やはり逃げるに如かずだったのでは?

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 18:32:33 ID:HZbmnCIR0
>>246
関わるも何も、最初から荊州は孫権の目標の第二歩目(一歩目は黄祖討伐)。
仮に劉備が襄陽獲ったとして、襄陽で曹操を抑えている間に江陵含む荊州南部を占領するんじゃないかな。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 18:58:50 ID:8+p4mrFA0
劉jも最初は戦おうとした。
劉備が劉gとの仲を取り持てば一時的に一致団結するんじゃないのか?
まあ戦後は兄弟仲良くあぼんするだろうけど。
山越の討伐が一段落してない時期の呉軍に荊州の経営まで出来るとは思えん。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 19:28:38 ID:uNXcRCoj0
劉備の手勢が1万というのは無いんじゃないかな。
赤壁前後の孫呉が総数5〜7万で自由に動かせたのが3万
揚州より人口が多い荊州が降伏したときに
曹操に組み込まれたのが同じく5〜7万くらい(掌握してない南部や劉gの兵を除く)といわれてる。

奇襲で統率されてない烏合の衆を相手するとはいえ、これらを相手するだけの兵は持ってたと思うよ。
「持ってた」というと語弊があるな・・・自分につくであろう将兵を計算したと思う。

劉備は実績として益州乗っ取りをもっと少ない兵力でやってる(時間はかけてるけど)んで、
襄陽乗っ取った後の身の振り方は別にして、武力で制圧できるか否かといえば物理的に出来たんだろう。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 20:06:36 ID:Io33eZ3aO
>>250
そこが劉備の偉いところでしょうね。
旧劉表領を奪取することは可能だが、その後の防衛と経営の困難さを
冷静に計算していたんでしょうね。
それなら逃げて態勢を立て直したほうが早い、と。

当初は江陵を目指したみたいですし、
まずはそこまで逃げて南下するか迎撃するか、当地の情勢を見極めたかったのでしょう。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 22:06:17 ID:WOpKGipr0
推測というか、多少想像交じりで考えてみると

諸葛亮の陸中対では、まず劉備は劉表の信頼をたてに政権内で勢力を拡げて、
政権ののっとりという形で劉備が荊州を支配することを狙っていたのだと思う。
その上で曹操の脅威を理由に孫呉と同盟を結び、さらに時期をみて益州まで
押えて天下三分、と。

ところが劉表の死と曹操の南下によって不可能になった。>251の言うとおり、強硬
すれば可能性はあっただろうが後のことを考えると対曹操で自殺行為。
そしてその結果、曹操を退かせるのに孫呉の力が直接的に必要になってしまった。
具体的には赤壁で直接対峙したのは周瑜。その後江陵を曹操から獲ったのも周瑜。
この二点は孫呉に荊州に軍事でなく介入させる口実を与えてしまった(演技では
これを打ち消すためにいろいろとやっている)。結果、劉備は荊南に割拠する事は
できたが、荊州領有の問題は最後まで両者間でくすぶり続け、陸中対で提示された
もう一つの条件「孫呉との同盟・友好」関係の構築を不可能にさせてしまった。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:24:38 ID:Vm8CmC7S0
srb

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 01:32:45 ID:Vm8CmC7S0
srb

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 22:33:58 ID:e35x9mKPO
趙雲に任せてれば良かったのに

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 08:14:16 ID:XTefT1tW0
age

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 17:43:35 ID:lGsQGp/Z0
>>255
趙雲は当時はそれほどの地位にはまだないから、
みんなが従わないんじゃないか。

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 10:14:05 ID:uR3zsT4e0
age

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 10:23:50 ID:6MQ7Bz5tO
劉備、関羽、張飛、法正が荊州。
馬超、魏延が漢中。
孔明が成都。

これしかないんじゃない?

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 12:22:31 ID:WTUR1ui1O
>>252
曹操が攻めてくる前を前提にすれば、諸葛亮の思惑はきっとそんな感じだろうね
でもこれはこれで魯粛が示した呉の基本方針とは根本(呉は長江流域=荊州への進出が最優先)が相容れないから、呉との修好は史実より難しいかもな

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 13:44:45 ID:hHvdfDI80
王平がじっとろう城してれば何年か持ってたろうよ。
その間に何かしらの手を打っておけば変わってたはず。
>>257のようになるんだけど結局何も仕掛けないでろう城してれば良かったんだよ。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 15:36:42 ID:/fxgZjHA0
その何かしらの手が見つからないから負けるんだよ

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 16:03:48 ID:jVSnWHy40
劉備陣営はやっぱり持ち駒が少ないよね。
仕方ないことだろうけど。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 18:00:46 ID:6DpK7apj0
劉備は何で、司馬徽を部下に入れなかったのかな?
彼を入れれば、荊州派が補強されただろうに。
まあ、法正より早く逝くっちまうけどさ。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 18:20:37 ID:r93vUGTOO
>>264
なまじ学識のある無気力な老人など害悪にしかならん

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 19:51:47 ID:6DpK7apj0
>>265
司馬徽がただの無気力な老人?
演義じゃないんだからさぁ、資料出してよ。
明確じゃなくてもいいから。

何かで読んだが、(幽明録だったかな?)にあるが、
劉表が、主足りるとは思えない存在だったから、
太公望風に過ごしたとかあるが?
曹操には仕えようとしたしね。

ただの無気力老人なら、荊州のお偉方は会いに行かないし、
曹操も重く用いるような期待はしないよ。
仕え始めたら、ぽっくり逝ったのが史実なんだし。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 03:56:30 ID:AUMKBiUd0
劉備も主足りるとは思えなかったんだろ

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:02:38 ID:T0Vrf90C0
>>266
司馬徽は無理だろ、現実味が無い
石韜とかを向かい入れる方が、まだ現実味がないかね?

>>267
劉表の政争に巻き込まれたく無いから、世捨て人やってたのに
劉表が生きている間に、劉備に仕えられる訳無いだろ
劉表死んだら即座に、曹操の荊州攻略戦だ
何所で、劉備に仕えるんだよ
バカかお前

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:51:07 ID:O9yK+7O90
_

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 13:55:51 ID:AUMKBiUd0
>>268
蜀以降の事しか詳しく知らんねん(´・ω・`)

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 14:38:23 ID:GFE6iP+Y0
罵倒・煽りは抜きで行こうや

関羽以外の誰に荊州を任せるのが良かったか想像する前提の話として
関羽が荊州でどんな権限があったかをまず明らかにせんとイカンと思うのよ

関羽が荊州で歴任したのは襄陽太守・董督荊州事・假節鉞
最期の何ヶ月か前にやっと假節鉞として軍事権を委任される訳だが
これだけで荊州を治められたとはちょっと考え難い
史料を逸脱した想像は避けるべきだが、孔明以下の諸将が蜀攻めに呼ばれた段階で
関羽に荊州での相当広い行政権が委任されたと考えた方がいいんじゃないか
呉との外交権込みという事もあったかも知れない

そういう権限に見合う人材として関羽以外に誰が考えられたかという問題だと思う
あるかどうかも分からん権限の存在を前提にした問題提起で甚だ収まりが悪いが
もともとIF想像の世界だからご勘弁を

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 15:17:11 ID:tgucPykAO
>>271
自分は以前から「適任は劉備」だと主張してきた者です。
とはいえ、占領直後の漢中、益州から劉備がとんぼ返りするのも
実際問題としては難しい気もしています。
そうなるとやはり関羽しかいないのかも知れませんね。
>>271氏の推測どおり、関羽が荊州における
ほぼ独裁可能な権限を与えられているとすれば、
その地位は余人には就かせられるものではなく
必然的に劉備、関羽、張飛のいずれかになります。
その中で張飛を関羽に代わらせる事は関羽に恥辱となりますし
関羽を敬愛する張飛も受けないでしょう。

やはり関羽しかいない、それが結論となりますね。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 17:23:57 ID:R1bHH1qZO
張飛は下ヒ城(だったか?)を奪われるという前科もあったしね。
内部の郡とかならともかく荊州という最重要地域を、
関羽をさしおいてまかせることはできんよ。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:40:05 ID:W4IxA3kD0
>>272
張飛はどうみても関羽と同格なんだけど・・・正確に言うと「関羽≧張飛>その他」
それは置いといて、一般論だけど

ありとあらゆる組織において「人事権」というものが統率者に必要なものである。
人事権とは組織の方向性や特徴を決定するものではなく、方向性や特徴に従って決定されるもので、
統率者が人事権を振るい、配置をおこなうことによって組織の目標を得ようとする。
逆にいうと目標を達成しようとすると完全な人事権力の確立が必要不可欠だといえる。
(それと双を成す「監査権力」はここでは割愛)
共産党で書記長が、自民党で総裁が、一番の権力を持つ所以はこの人事権にある。

曹操が一番凄かったのは、漢朝の人事権(役位)が死にかけだけれど未だに大きな力があると見抜き、
それを時代の変遷に合わせて非常に上手く有効活用した点にある。

関羽を「独裁可能」というならば、人事権=組織上の独立権、が必要だけども、関羽にこれが一度たりともあったことはない。
そんな組織上の例外(前例)、欠点ともいうべき事実があると・・・一度でも作ってしまうと国家としてなりたつはずがない。

>>271にもあるけどよく考えて欲しい。

現在でいうと本社の役員会議又はワンマン社長の意思で決定された人事を、
支社長が「自分の領域」だからと代えられる権限などない。
勝手にしたら支社長がクビ。
もしくは同業他社との接触(提携・合弁・談合など)を自分の裁量で決定して本社に事後報告して承認を願うことなどありえない。
勝手にしたら支社長がクビ。

支社長が許されているのは、その業務において一々本社に報告や裁可する必要がないように予め与えられた
「一定の権限」の範囲においてのみ。
そして関羽に関する記述を読むと、なにかしら特別な権限があるかというと・・・そういう記述はどこにもない(節鉞以外)。
あたりまえだけどね。



275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 21:07:24 ID:jtMWA84o0
劉備の場合、名目上でもいいから代理司令官を任じられる一族がいなかった
(幽州からついていかなかった)のがいたいよな。

成人した息子がいればよかったのだろうけど、これは放浪のツケか。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 09:22:11 ID:ZOaxj0Hj0
張飛のケースをみれば、純粋な武人は士人に見くびられる。
荊州の土地柄で士人が集まっているからなお更だ。
やはりそれなりの教養があって、
そして漢より直に爵位を授かった関羽以外、適材はいない。



277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 10:52:50 ID:GfysAo7r0
age

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 11:46:14 ID:IxD28WO50
名士って後の時代に科挙によって半ば制度化されたのに比べると、
かなり曖昧で、よく分からん

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 14:56:02 ID:EPJx1UW70
張飛は時代が違えば、案外科挙を受けて進士になっていたかもな
たまに軍事に精通した文官なんてのが出て来るんだし

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 16:05:19 ID:aAVSKUGH0
だがその場合平話のバイオレンスジャック張飛に殺されかねないほどの有能だが典型的な悪代官になっていたかも

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 16:50:21 ID:HNn+qbIc0
劉備が徐州時代に対袁術戦で留守の最中に呂布が奪ったのだけど、
張飛の失態だと明確に書いてあるソースか、それと推測させるに十分な記述ってあるの?
知ってる限りでは留守中に曹豹と関係が拗れて

「曹豹が呂布の介入を求めた」 ← 問題は劉備に仰ぐのが適当であるはず
「呂布到着前に張飛は曹豹を斬った」 ← 張飛は迅速な対応をした
「許耽は呂布が到着するとこれを迎えた」 ← 曹豹⇔張飛だけの問題でなく劉備一派と徐州土着一派の問題であると伺える

むしろ呂布を迎え入れた劉備の失点としか言いようが無い気がするんだが・・・
限られた張飛の関連記述を読めば読むほど(有名な欠点はあれど)名将の部類としか言いようが無い。

上のほうに出てた「漢中の失態」にしても呉蘭の失態っぽいしな・・・
呉蘭・雷同+馬超・張飛は217年に行動を起こして翌218年3月に大敗したとあるから、劉備の本隊は漢中を掌握してもない。
この時期に下弁攻略に成功したとしても兵站からして維持は無理。
つまり一連の侵攻自体が夏侯淵軍から曹洪軍を引き離すための陽動としたほうが無難。
もし本気なら経験・実績・ネームバリューで圧倒する馬超張飛を先鋒(本軍)に当たらせて無名の呉蘭雷同を後詰(支援)にするべ・・・
漢中の張飛隊を総括すると
・陽動により曹洪隊の引き付けに成功した
・張飛は回り込み(張コウを撃破した得意の戦術w)しようとしたが見破られた
・結果下弁は落とせなかった
・それどころか呉蘭雷同は撤退中に「全滅」した
・張飛隊は漢中に戻った
・一連の戦で称えるべきなのが曹洪であって、責められるのが張飛というのには疑問符がつく



282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 21:30:40 ID:C5NoHU670
三國志を読むと、張飛の活躍は解りやすいのに、関羽は魏の名将だった于禁を降伏させた
位しか詳しい解りやすい記述ってないよね。

関羽の何所が凄かったのか良く解らん。夏侯惇と同じ感じがする。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:46:27 ID:Y/Jk51QN0
それは夏侯惇に対する侮辱だ!
と、夏侯惇厨の人がきましたよ。

>>(有名な欠点はあれど)
コレ自体がそもそも推測される十分な記述じゃないのかな
名将足りえる軍事的才能はあっても、大きな欠落という気がする。

原因は分からないけど英雄記だと張飛が曹豹を「殺そうとした」「殺した」。
これで軍中に疑心暗鬼が走り、許耽が呂布を迎え入れた。
迅速な対応というよりも短慮だと推測される。


284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:52:53 ID:HNn+qbIc0
いあ、曹豹が殺される前に餓狼として名高い?呂布に介入を求めたのは事実。
留守を守っている軍事責任者が張飛で、何らかの問題で喧嘩になったとしても、
仲裁を仰ぐのは劉備であって呂布ではないでしょう。
ライムテーブルでは張飛はあくまで曹豹が呂布を呼んだから斬ってることになってる。

「許耽が呂布を迎え入れた」

というのはもっと具体的な行動で「内から門を空けて呂布軍を城下に誘導した」とある。
間違いなく劉備不在を利用したクーデターと見ていいし、陳登親子が黙認してる辺りに張飛だけの問題とは言えないと思うんだが。




285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:53:42 ID:HNn+qbIc0
>>284
×ライムテーブル
○タイムテーブル

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 22:56:18 ID:ajhQRtGF0
>>281
先主伝注では張飛が曹豹を殺そうとした為に曹豹は陣営を固め、
その上で呂布と共同して張飛を打ち破っている。
どっちにしろ徐州豪族と劉備一家の折り合いは普段から悪かったが、
そこに決定打を与えたのが張飛という事になる。
曹豹は徐州軍の主戦力である丹陽兵の親分であり、下?の相でもあった人物。
また劉備配下でも留守中の下?の守将を任されている(先主伝本文)。
恐らくは士大夫ではない事を理由に張飛(官職不明・多分低いか無職)が軽んじていて、
遂にはお互い手勢を率い争うまでになったんじゃないんかね。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 01:25:32 ID:tPQ3zNdq0
徐州に縁も縁も無く、実際には曹操の侵攻を追い払った訳でもなく、
徐州を継ぐ正当性も無い劉備がいきなり徐州の支配者になった
っていう事自体がそもそも滅茶苦茶な話であり、
余所者の劉備含めその一党がいきなり支配者階級になるんだから
地元の豪族や名士と上手くいかないのは当然な気がする。
特に武人肌の張飛が裁けるような情勢でも問題でもないと思うな、
そんな張飛が留守の責任者ってのが元々無理な差配じゃねーの。
ただ他に裁けそうな人物もいそうにないけど・・・

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 04:18:30 ID:UZSzZ3sD0
つまり荊州の留守番を任せるには張飛は不適格って事かね。


289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 06:02:34 ID:sLGFIXSn0
>>288
それちょっと違う。
蜀漢=荊州派の軍閥。歴代の宰相を見てみれば解る。

関羽は荊州士大夫を莫迦にしていたから、後方支援は上手くいかなかった。
張飛に、荊州士大夫の大物を付ければ、関羽より上手くいくんでない?

一番良いのは、劉gが長生きする事なんだろうけれどねw

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 10:15:00 ID:Jf3CqrKC0
荊州士大夫の大物と言えば諸葛亮だな。
他のは皆、諸葛亮のコネ(司馬徽)から芋づる式に引っ張って来れた連中だし。

あと、益州の場合、地元の有力豪族はあらかた劉焉に排除されていて、
劉備や諸葛亮の時代の益州派というはこの劉焉や劉璋が連れて来た連中。
徐州は未だ地元の有力豪族(陳親子や曹豹など)が多くいたし、単純な比較はできないよね。
それでも諸葛亮の占領下では度々反乱が起きてたようだけど。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 15:42:04 ID:pjaJOQgY0
劉備がもし張飛以外の者に徐州を任せていれば、徐州を失わずに済んだだろうか?
それともやはり誰かに徐州を奪われてしまう結果は変わらなかっただろうか?


292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:19:08 ID:pjaJOQgY0
自レスになるが陳登とかどうだろう?

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:22:57 ID:pjaJOQgY0
孫策をも斥けてる戦上手だし。

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 17:59:58 ID:sLGFIXSn0
陳家じゃ駄目だ。呂布に付いちゃう位だしね。
何かやばくなったら、即、劉備を裏切るよ。

徐州出身じゃないけれど、あの頃付いた部下で良質なのは、
孫乾とか糜兄弟位じゃね?

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 19:19:32 ID:e4DuD0ks0
孫乾が良質かどうかは難しい。
ただし袁紹や劉表への使者に遣われてる所を見ると、劉備から信頼されていたと思う。
糜兄弟は揃って曹操にもかなり気に入られてたぐらいだし、能力は高かったろうね。
特に糜芳は呉に降った後も武勲立ててるし、部隊指揮官としての才能もあったようだ。

でも結局の所、格の上でも曹豹を差し置いて守将にするのは無理があったんじゃないかな。
元々下ヒを支配していた曹豹を左遷して別の誰かを据えるなんて、
それこそ大問題になるだろう。

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 20:44:58 ID:pjaJOQgY0
>孫乾
劉備のリクルート先を見つけるのに度々素晴らしい活躍をしている。
ただ外政上の最大の手柄である孫権との同盟を取り付けたのは
孔明でありケ芝であるので、そこらへんと比せば一発の大きさで若干劣る印象。
まあ使者としては相当優秀な方なのは確実だろう。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 01:54:43 ID:ZVVGpddB0
徐州失陥時、劉備は34才。
だから張飛は20代後半の小僧かもしれん。
義兄弟とはいえ、そんなのに留守を任せるなんて明らかにおかしい。

本拠地の守りで荀程と関張の対応の差がそのまま曹操と劉備二人の明暗を分けた感じだ。
関張の場合、得意の戦で負けた訳でもないのに、仲間同士の内訌で勝手に自滅してしまう。
どれだけ劉備が頑張って土地を切り取っても、留守番役がヘマをして本拠を失ってはどうしようもない。
それを踏まえると本当に必要なのは独力でどうにかしてしまうような凄いタイプではないのかもしれんな。

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 03:27:02 ID:ZVVGpddB0
あげ

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 13:34:02 ID:nbuLEetoO
荊州・益州の強奪行為や呉領を略奪するからいけないんだお。劉備に信義なんて言葉は存在しないお。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:08:49 ID:m4XOcfYC0
曹豹と許耽は徐州派でも劉備派でも呂布派でもなく袁術派じゃないの?

袁術が呂布に参戦を願ったのは確かで
その瞬間になって都合よく張飛と曹豹が仲違いを起こして
曹豹が死んだか追われたか立て篭もったのかどうか知らないけど、後になって
混乱を収めるためにと称して呂布を迎え入れるなんて出来すぎているような

曹豹=丹陽出身
丹陽=袁術の勢力圏

そうだとすると袁術は劉備より一枚も二枚も上手で
呂布に劉備の背後を突くように釣り出して
同時に徐州の袁術シンパを使って張飛を追い出し
本拠地を失った劉備は大敗した

袁術の誤算だったことは劉備が死ぬわけでも遠くに逃げ落ちるのでもなく
何故か呂布に降伏して徐州が袁術の物にならなかったということかな

下ヒの相でローカルな大物であった曹豹のその後が一切書かれていないということは
呂布伝にあるように混乱の最中に張飛に殺されたか、あるいは呂布本人によって
用無しとみなされて殺されたんだと思う
尤も呂布と袁術が第一次の決裂を起こすのは後のほうだから張飛に殺されたとみるべきか?


301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:20:34 ID:m4XOcfYC0
>>300の続き

そうすると、徐州の張飛留守番事件は曹豹vs張飛
あるいは徐州派vs劉備派という単純な構図ではなくこうなるのじゃないかな?

前提:袁術vs劉備の戦争が勃発し袁術は劉備の居候である呂布を引き込む
第一段階:留守で袁術派(丹陽派)?の曹豹vs劉備派の張飛が勃発
第二段階:徐州派の陳登は傍観あるいは黙認
第三段階:曹豹が殺されるも同じく丹陽派の許耽が呂布(味方の味方?)を招き入れる
最終段階:張飛は敗れて徐州陥落、劉備も袁術戦を諦めて呂布に降伏

一応筋が通ってると思うけど、どう?
こうなると張飛の失態などどこにも無いような気がしなくも無い。

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:35:53 ID:m4XOcfYC0
確実に言えるのは下ヒの裏番長といっていい陳登=徐州派は
ヨソモノの主なんて、自分達の権益さえ認めてくれれば誰だってよく
陶謙→劉備→呂布→劉備・関羽→曹操
アッサリコロコロ変えているので信用できない

仮に徐州派から信任するとしたら麋兄弟以外ありえない
兄の麋竺は人を統率するのが苦手とハッキリ書いてあるから無理
結局劉備が留守番任せられるのは徐州派だけど自分に忠誠を誓ってそうな
戦の経験など無さそうで恐らく張飛より若いであろう麋兄弟の麋芳か張飛本人になる

何れにせよ徐州喪失の原因が徐州にもう一つある庇護勢力呂布の裏切りということと
それに応じる(あるいは応じさせた)内部の勢力があったということ
劉備派自体が徐州新参の馬の骨で必ずしも円滑な人間関係が成り立っていなかったこと
この状態での責が張飛一人にあるというのは無理だというのが私的な感想です



303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 19:18:42 ID:ZOyKcny00
d
勉強になるなぁ
しかし麋芳はつくづくかわいそうな男だな…

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 23:25:13 ID:jwm+C4JX0
>>300
面白くて新鮮で感心した。
結局地盤らしきものが出来る時間がなかったことが劉備にとって痛かった。
これは後の荊州ででも言えることだけど。
地縁血縁のない、ってのは想像以上にハンデになっているね。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 23:35:20 ID:+Y75jkYW0
いや、そういった自派に属さない勢力を抑えておくのも、留守役に任される
役目じゃあないか?
張飛一人の責任じゃない、という点は同意ですが、張飛に失態はないという
のは無理があるかと。

あと質問ですが、劉備と袁術ってなんで敵対したんでしたっけ?もともと徐州
というか陶謙は公孫[王賛]派で、すなわち袁術閥の一員。劉備も反曹操(袁紹)
として陶謙の援軍として徐州に入って引き継いだのでは?

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 01:54:13 ID:uaHQJUnt0
公孫サンは「袁術派閥」ではなくて「公孫サン派閥」ね。

192年の界橋敗戦までは董卓に次ぐ第二勢力といっても過言ではない。
なにせ幽青徐州に股を掛けるんだから場合によっては筆頭勢力かもしれない・・・
だから公孫サンは公孫サンで独立勢力と見たほうがいい。

そんな公孫サンの子分の劉備が徐州で棚ボタ拾ったのが194年。
そう・・・親分の公孫サンも親分がやや落ちぶれて、親分の盟友の袁術も、
193年の匡亭で大敗北して落武者として揚州に逃げてきたばかり。

ようは劉備は陶謙から徐州を譲りうけた時点で独立しちゃってる訳w
>>305

徐州時代劉備の悪運一覧
・虐殺上等のキチガイじみた曹操相手に苦しむ陶謙の援軍に出向いたら、タイミングよく曹操が呂布の乱で引き返した
・直後になぜか陶謙が死んで、なぜか着たばかりの劉備が州を丸ごと貰えた
・親分関係は徐州どころではない落ち目だったので誰からも正当性を指摘されずにスルーされた
・曹操がまた徐州に食指を動かしたけど、呂布が未だに暴れまわっていたので無理だった
・ニッチもサッチも行かなくなった時に家財全てを投げ打って救ってくれた奇特な兄弟がいた
・呂布に降伏したら城を貰えた
・その城に袁術の魔の手が忍び寄ると珍妙な手段で呂布が助けてくれた

徐州時代劉備の悲運一覧
・徐州を手に入れたのはいいけど掌握できた人脈は僅かだった
・名目上は配下になった者は多かったけれど上記の理由からキッカケで脆くも瓦解した
・曹操に敗れた時限爆弾・呂布がなぜか劉備を頼ってきた
・ほうほうの呈で揚州に逃げこんだはずの落ちぶれた元大物が一瞬で息を吹き返した
・息を吹き返したどころか正統で強力な武力も備えてる刺史をあっという間に追い払っていた
・後方の安全を確保した袁術・・・何時の間にかその矛先が自分に向けられていた
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
・仕方なく交戦していたら何時の間にか帰る場所が呂布の物になっていた


つまり、袁術は一つの州、一つの拠点を持てばよしとする小物ではなくて、天下を夢見る英雄だったのが理由の一つ。
劉備などかつての盟友の子分にしか過ぎず、何の柵もないどころか、着任して間もなくということもあって

 袁 術 の 周 辺 で 間 違 い な く 最 弱 で 好 都 合 

弱ければ攻める、一番の敵対に値する理由だと思いますよw

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 02:02:22 ID:uaHQJUnt0
                            徐州に入る前に言っておくッ!
                    おれは今やつのスタンドをほんのちょっぴりだが体験した
                  い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『おれは袁術と戦っていたと思ったら
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        何時の間にか呂布が徐州を乗っ取った
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |         のに俺は呂布の子分になっていた』
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'   ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何をされたのかわからなかった…
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐  \    皇帝僭称だとか主君殺しだとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ  もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 03:00:41 ID:LzOfwFosO
>>306
つまりリスね

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 04:12:32 ID:0G8sgb4t0
虐殺絡みでありえない話になるだろうが、
落ち延びてきたのが袁術には滅法強い曹操だったらどうなるだろうか?

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 12:55:57 ID:0G8sgb4t0
age

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 11:51:36 ID:WPN0F+1H0
>>309
普通に曹操軍が徐州豪族にフルボッコにされて追い出されるだけじゃね?
劉備も曹操軍を取り込もうとしたら一緒に追い出される危険性があるから迂闊に動けないだろ。
それ以前に、曹操が逃げるとしたら袁紹軍じゃないかな。
エン州を呂布に取られた時に、袁紹が家族をギョウに移せって言ったってのは程イク伝に載ってたよな?

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 15:28:32 ID:pf651W1X0
age

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 16:46:20 ID:PjAL/vfX0
age

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 18:54:53 ID:wGJXpCMB0
おまえらなんにもわかtっやいねえな

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 03:57:36 ID:2JyPEdRo0
age

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 14:39:10 ID:k4FmPLfm0
比べれば比べるほど徐州喪失と荊州喪失の成り行きは似ている。
勿論、背景や詳細は違うけどね。

類似点

・喪失した直接の理由は正面の敵との交戦ではなく、背後を衝かれたため
徐州:正面=袁術 背後=呂布
荊州:正面=曹仁・徐晃 背後=呂蒙・陸遜

・留守番の防衛機構は内応で機能しなかった
徐州:曹豹・許耽
荊州:麋芳・士仁

・背後を衝かれた事と、内応者が居たことで全勢力基盤が一瞬で失われた
徐州:劉備軍は崩壊、優秀な家臣達は霧散、裏切った呂布への屈辱的な降伏で一州の主から一都市の主
荊州:逃げ場を失った軍の崩壊、関羽は斬殺される

・劉備不在時に州を預かる将は天下無双の豪傑だったが、それ以上に問題児だった
同僚との間が不和だったのも共通点
徐州:張飛
荊州:関羽

・いずれの場合も所有権に正当性があり、同時に付け込まれる弱みがあった
徐州:劉備は陶謙から譲り受けたが、それ以前は無官無名に等しい雑魚
荊州:劉備は劉gから譲り受けたが、孫権に大きすぎる借りを作ってしまった

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:07:45 ID:2JyPEdRo0
ぬふう

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:08:55 ID:2JyPEdRo0
ぬふうう

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:10:40 ID:2JyPEdRo0
ぬふううう

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:13:49 ID:2JyPEdRo0
ぬふううううう

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:14:47 ID:2JyPEdRo0
ぬふふふふふふ

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:17:43 ID:2JyPEdRo0
    //´   ///´  ィァ / | \| \/
\   lイ   / //   // _,.ィ ∧\| l ヽ
.  >//  ,′ l  /¨7 メ //  ヽミ| l  ト、
/ / l l  l   |/>=≠ミ / /^ヾ、!    '. \
〉 / .:| l  l   | >′● Y    ,ィ=、_, | l  l }   `ー
‐'{ /:.イ l  l   | '"ー-     ´ ● ヒ| l  l |
 l//| l  l   |          ‐-、イl  l /     …あらあら、ぬふぅぅぅ
/  | l  l   |       `     /l l l/
  /| l  l   |     `ー=-     / l l |
 // イ l  l   |      `     イ  l l |
.// | l  l   | ヽ、     ,.  1 l  l l |
'´ /| !  l   |   ` ーr' ´   | l  l l |
_/   !l  l   |    /=、.   | !  l l |

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:20:17 ID:2JyPEdRo0
ぬふうううううう

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:21:06 ID:2JyPEdRo0
ぬふうううううううう

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:23:34 ID:2JyPEdRo0
ぬふふふふふふふふふ

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 17:24:58 ID:2JyPEdRo0
                 ,. -、
            _.,,/-....._ヽ
         ,.-=7..:.:.:.:,:lー、::ヽ...、
         〃 /:::/:/lj`_ `;:::l`、.、
         //  ク:l(::フ  l:.::j l::::l  l i
       ,' ;'  ゝl −`l =L):!  .! l   恥ずかしいぬふぅ、禁止っ
       i l     (\..|_」、-,'ニ、   l .!
      ,! l  _,/_ゝ. \/  .}   l l
.     l ,!   (/  _,>、 ´ヽ /    l l
       l l   ゝ-l} /l 丶ノ-' {.    l l
       l l   (´lj/|、ヽ|| _j   l l
      l l    `| | .|ゝ'´「´    l .!
.       ! l     j j. |  丶   ,! l

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 18:42:22 ID:Cyemg54p0
>>316
徐州では、呂布への降伏で城を一つもらって、一応の和解。

荊州でも、魏への対抗上、再び蜀と呉で同盟。

このあたりも似ているな。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 21:06:47 ID:YLwnnPUH0
陶謙や劉gから譲り受けたって、全然正当性が無いんだけど。
中央から正式に任命されて初めて正当性が生まれるんだし。
細かい突っ込みだけどね。

そもそも劉備って徐州時代は平原国の相、荊州時代は予州の牧だよね?
しかも自称ではなく、正式な。

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 21:09:12 ID:EVisTGsJ0
戦だと血もでるし痛いから麻雀で荊州が誰のものか決めるべ

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:32:51 ID:1CzoYcc70
age

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:34:13 ID:1CzoYcc70
age

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:36:32 ID:1CzoYcc70
あげ

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:37:57 ID:1CzoYcc70
あげ

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:39:14 ID:1CzoYcc70
あげ

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 14:32:41 ID:hI4+lNXx0
>>290
劉焉・劉璋時代に土着の豪族の勢力は減少し、劉焉が連れて来た連中が勢力を
拡大したのは事実だろうけど、劉エンは豪族を10人あまり殺したらしいが
果たしてその程度で益州全体の豪族を解体できるだろうか?
もし本当に益州中の豪族を解体しようしたら、返り討ちにあう可能性も低くは
ないだろうし、ほぼ確実に益州は荒廃すると思う。益州は劉エン、劉ショウの
時代は他の地域と比較して豊かで平和だったみたいだけどね。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 18:43:29 ID:RWglqk1e0
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1193473859/l50

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 02:39:01 ID:WVKDFTG50
あげ

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 20:49:54 ID:WVKDFTG50
あげ

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 06:39:59 ID:Ems9gFFPO
俺しかいない

荊州を落とし穴だらけの街にする

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 22:49:09 ID:PS0b8Rmk0
かんうさいきょう

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 04:23:17 ID:4cBRgtw40
かんうさいきょう

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 12:40:27 ID:eGGYyMWJ0
>>335

「豊か」であったのは間違いないと思うが
「平和」であったのかは疑問符がつくと思うよ

劉焉伝には馬相の乱が相当大きな反乱だったことを伺わせるし
劉璋時代になると馬相を鎮圧した大功臣の趙?も謀反を起こしたともある
この反乱は正に一大危機で版図の半分が寝返ったらしいね
避難民である「東州兵」を使いこなせずに略奪を黙認してるし
何より張魯という内患がずーっと放置されてるままだからなあ・・・


ちなみに豪族は解体されてないような?
相次ぐ反乱や命令を聞かなくなったと記述があるのが何よりの証拠かと

勿論劉備の正当性を造るために劉父子にネガティブ補正かけてるんだろうけど
それを差し引いても豪族が如何に半独立状態だったかわかる

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 08:35:11 ID:8vJBNs4J0
当時は中国中で大規模な反乱が多かったし、黄巾、董卓、袁術、曹操のせいで
荒廃した黄河と長江に挟まれた地域よりは平和だったんじゃないかな。

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 12:32:00 ID:tUuw8xW90
まぁ相対的には平和だったな
実際に三方から難民が押し寄せてるわけだし

しかし道をぶっこわして鎖国までした空間ですら
乱世とは無縁ではなかった

そういう比較論だと劉表時代の荊州中央部が一番平和


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 21:40:59 ID:UVk3tA1z0
南蛮はいるし
地域豪族もうるさいし色々大変だべ

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 23:17:12 ID:Hrprg2sL0
関羽の戦歴って以外と貧弱だよね。
大きな軍を任せられた晩年が荊州の守りだからしょうがないかもしれないけど
晩年に軍功を重ねた張飛とは対照的
通算戦歴でいうと馬超>張飛≧関羽≧黄忠ではなかろうか・・・


顔良を斬った後の関羽の戦績:

赤壁前の荊州逃亡時には徐晃に負け

江陵での曹仁追撃時には李通に阻まれて達せられず

呂蒙の荊州侵攻時には孫規に負けて桂揚を失い
甘寧に阻まれて長沙も救援できず
カク普は放置

荊州北上は曹仁呂常を囲み荊州牧などの将を降すも、対于禁は天災に助けられただけで、本命の徐晃には負ける

最後は呂蒙の大包囲に成すすべなく軍崩壊で終了


347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 13:10:45 ID:8zh+lIR90
この時期の曹仁の兵力が数千と少なすぎるのも関羽にとってはラッキーだった。
孫権の睨みとして寿春合肥に夏侯惇張遼の大軍がまだ残っており、漢中劉備の睨みとして長安に曹操本軍が駐屯。
長安から援軍の徐晃は宛で徴兵をして、さらなる増援を待ってるのでほとんど単身赴任w
そんな状態から最後は関羽の軍を漢水に叩き落として勝った徐晃。

関羽の突破力を誇張する人がおおいけれど、数千の曹仁を破れずに釘付けにされてたというのが実態だね。
劉備は長安の曹操を牽制してるつもりだったが、実は牽制されて動けなかったは劉備のほうだった。
そうなると援軍なしの関羽が次々と投入される曹操の援軍に負けるのは必然であって何時の問題。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 20:25:08 ID:O9kHhnxd0
粘りの男曹仁が一度でも撤退を考えただけたいしたもんだろうに。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 22:26:09 ID:O9kHhnxd0
魏:曹仁、呂常、于禁、龐徳、徐晃、趙儼、徐商、呂建、殷署、朱蓋
呉:呂蒙、孫皎、蒋欽、朱然、陸遜、潘璋、馬忠
蜀:関羽、関平、趙累、士仁、麋芳

曹仁は七軍を都督していたので最初から寡兵だった訳ではないはず。
天災に助けられたといっても彼我の条件は同じで、自軍の覆滅を救った手柄を無視しては片手落ちだ。
また曹操の戦後評価にしても関羽を侮るようなことはなく、莒、即墨を包囲した楽毅に比して、
その上で徐晃を孫武、司馬穰苴、周亜夫になぞらえて称えている。
文帝の即位前後には陳邵にあっさり襄陽を奪われるなど相当この方面の戦力は弱体化している。
北伐の諸葛亮でも官渡の袁紹でもそうだが、安易な結果論で断定するのはいい加減流行らないからやめた方がいい。
勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 09:57:49 ID:qXXRmiRE0
袁紹スレでもこんな恥ずかしいやついたなあw
関羽以上に魏の中枢を震撼させた将軍なんていないだろうに。
泡沫勢力でしょぼい戦歴をあげ続けるのも至難。
魏が勝つのは当然としてどのように勝つかが問題。
その勝ち方としては戦利の大半を呉にもってかれたことからかなりろくでもない類。

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 12:26:21 ID:a3cNd2PN0
曹仁の兵力=数千
というのを鵜呑みにしてる時点で…

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 09:59:50 ID:9ngkD+9C0
>>349
魏は始めから関羽軍のみを相手にしてないがな。
魏での反乱、賊の蜂起、関羽軍とこれらを収めたから
徐晃を孫武らに称されたわけなんだが。
関羽は凄かったって固定観念はするのは
いい加減流行らないからやめた方がいい。
勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。


353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 12:48:18 ID:V38INZ84O
最低でも賊の反乱は関羽と一体で考えるべきだと思うが


354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 13:36:26 ID:pEKODIGS0
>353
関羽は乱が鎮圧された後に腰を上げて各個撃破された形になってるから
関羽評価の−要因にはなるけど+にはならないだろ。

>350
魏の目的は守ること
呉の目的は南部荊州攻略
関羽の目的は北進

目的を達していないのは

魏 △ 損害が出たけど領土失わずに守った
呉 ◎ 漁夫の利ウハウハ損害なし
蜀 × 北進どころか荊州勢力が滅んだ

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 13:44:44 ID:Aq8+YwVg0
>>352
序段が説得力なさすぎ。あいたた。

>関羽は凄かったって固定観念はするのは
>いい加減流行らないからやめた方がいい。
>勉強不足と理解不足をさらけ出すだけだ。

といいたいだけの厨房だろw
侯音の乱を鎮圧したのは徐晃じゃない。プゲラ

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 14:52:17 ID:9ngkD+9C0
関羽が北上したから魏が危なくなったというより、魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んだだけだし。
それでも、守る分の備えはあったはずなのに于禁のチョンボで反乱軍が増長したわけだ。


357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 15:57:02 ID:Aq8+YwVg0
>>356
>関羽が北上したから魏が危なくなったというより、魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んだだけだし。
違う違う。
「魏がガタガタの隙に関羽が攻め込んで、関羽が北上したから魏が危なくなった」んだよ。

>それでも、守る分の備えはあったはずなのに于禁のチョンボで反乱軍が増長したわけだ。
無理な自論を通すために于禁までおとしめることはなかろう。
どんな名将でも天災で窮することはある。慕容紹宗とかな。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:27:36 ID:9ngkD+9C0
>>357
なにを言ってるんだ?
反乱、賊徒、関羽軍、劉封軍、そして黙して語らずの孫権軍を合わせて
魏の危機だったわけなんだが。
関羽はそれらを一つに纏めようとしてただけ。
それも叶わずにすべて各個撃破されてるけどな。
兵力として最大なのは関羽で賊にも呼びかけもしてるが、
呼びかけの賊まで、勘定にいれればそもそも関羽自身も反乱軍の要請で
動いてるわけだが。

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:33:44 ID:9ngkD+9C0
あともう一つ、于禁は水害の危険を知らされていた。
危険を知っていて対処しないは非難されるべき事じゃないのか?

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:51:40 ID:VR62KbYTO
つまり關羽軍と戦うより水害と戦え、と。

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 17:56:36 ID:dXR50I2f0
魏軍きっての奇襲カウンターの天才の于禁も水害には対処できなかった、と

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 20:29:54 ID:Aq8+YwVg0
あんたの主張をまとめるとこうか。

1:関羽凄くない
2:于禁凄くない
3:龐徳凄くないけどエラいぞ龐徳(なでなで
4:曹仁、呂常凄い関羽ざまぁw
5:徐晃凄い
6:呂蒙超凄い

…と。こんな感じですか?はははw
その凄くないやつに七軍、十二営を投入して半年もかける魏という国は凄いですね〜(藁

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 20:56:35 ID:9ngkD+9C0
関羽厨の被害妄想が一番凄いな。
話題に出てない人物まで出すんだから。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:02:46 ID:yypCSg4r0
ID:9ngkD+9C0は関羽アンチか、蜀アンチだな。

劉封軍(孟達軍)て、不動の軍じゃねえぁか…
反乱怖くて動けねえよ。史実でも寝返り食らってるんだから。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/15(木) 21:22:55 ID:Aq8+YwVg0
>>363
俺はただの三国志ファンさ。
ただおまえのような曇った目でしか考えることが出来ず、
論調が過大過小すぎて公正とは程遠い輩ほど馬鹿じゃないというだけ。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 00:54:36 ID:v6sN7KLX0
わざわざ相手貶す為だけにレスするなら一回回線切って頭冷やせ

367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 03:06:40 ID:a+Sv5/+40
つーかホウトウが死ななければよかった。


終了

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 03:08:58 ID:a+Sv5/+40
鳳雛がちゃんと孔明のいうこと守って嫉妬しないで生きていて、
バショクも命に背かなければ結構よかたんじゃない?

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 04:18:35 ID:DGti2Ouc0
終了じゃないのかw

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 04:23:23 ID:AeP0JOPv0
それで言いつけを守って負けたら孔明の指示のほうが適切でなかったという恐ろしい罠

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 11:16:02 ID:ay4eFTFFO
つーかホウ統は流れ矢に当たっての戦死だろ?
孔明との確執なんて創作じゃん。

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 14:12:52 ID:wR3Tl3+Y0
孫権は裏切って荊州を奪った上に関羽を殺したわけだが、そこまでする必要が
あったのだろうか?
関羽くらい逃がしてやればよかったのに…

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 14:22:43 ID:QbFaA6U90
もし関羽が生きてたら歴史はどう変わったかな
イリョウは無さそうだ
なんとなく魏にはデメリットが大きい気がする

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 17:06:10 ID:5HX0JXZB0
麦城で死んでなければ夷陵で死んでるだろ。
水軍の破棄が朱然の退路遮断と陸遜の火攻めに繋がったのを考えると
若干結果は変わるだろうけど、大勢を覆せるとは思えない。
機能してるときの孫権―陸遜ラインは鬼。

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/16(金) 18:27:53 ID:zSggEv1CO
>>374
関羽存命なら呉への侵攻は全く別のものになってるでしょ。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/17(土) 12:09:15 ID:lxEaBwzz0
関羽が逃げ延びる可能性があるとしたら、江陵に戻らずに水軍で漢水を遡って漢中にいくくらいかね?
宣都郡まで陸遜が制圧してるから陸路では無理でしょ。

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 23:43:26 ID:eVG04n2t0
そういえば孟達って宣都から上庸に侵攻してるんだよね。劉封は漢中から単身赴任。

関羽は益陽に三万で布陣した〜云々のくだりが本当なら関羽の北上部隊は

30,000−守備部隊−孟達部隊=?

これは許都を窺がうどころの兵力じゃない。宛まですらも怪しい。
やはり関羽北上の理由は土地を切り取れるだけ取るという見方が正しいと思うね。



378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 00:04:43 ID:dap+ziPT0
あともう一つ気になることが・・・
関羽は文聘の江夏を無視してる。
んで樊包囲後に結構北まで陣を伸ばしてる。
地図を見て気がついたんだが、襄江の北岸とイク水の東岸にはまったく手をつけてないんだよね。
つまり、樊を「江を利用した防衛ラインの外」に置いたような形が出来上がってる。
これみると防衛的侵攻だったんじゃないかと思えるぞ。マジで。

仮にこの国境線が確定すると魏は樊をまず落とさないといけないことになり、
蜀からすると何処から魏が侵攻してくるのか非常にわかりやすい上に、宣都も上庸も完全に遮断されて安全になる。
しかも各長江支流が完全な防衛線となるし、蜀が攻勢を掛けるなら防衛線の外の樊は出城的性格を持つことになる。

こうなると関羽の独断説は100%無いものに見えるから不思議だ。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 09:23:21 ID:TjBnizFY0
age

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 10:40:31 ID:JmqwfWSgO
>>378
非常に蓋然性の高い推理だね。
劉備の内意を受けての北上だとしても無理がない。
勢いに乗っての版図の拡大だとすれば、失陥の責任は劉備にある。

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 14:21:38 ID:SvvVdtqc0
>>380
もっと大軍なら飯を食い尽くして前に進むしかない、と弁護することもできるが
>>377じゃそうもならないなあ

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 20:21:12 ID:YRFAUt5o0
あげ

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 13:34:55 ID:XB5dUyTu0
>>380
だとすると、時期が悪すぎるよなあ。

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 13:38:48 ID:AWoUwa8Q0
もう中原を諦めてベトナムとかチベット目指せばよかったんじゃない?

建寧から南海へのルートもあったようだし、ひたすら周辺蛮国の漢化政策をおしすすめて人口を増やす。
五百〜千年後くらいに「賊が乗っ取った中原を正す」「賊によって乱れた漢の末裔の地を本家が救う」とかいって侵攻。

それがダメなら匈奴みたいに大移動してデンマーク〜アイスランド〜グリーンランド経由でアメリカに大帝国を造るの。
馬も鉄も文字も知らないところだから千年王国ができる。

関羽はその先鋒としてロッキーやアンデスを乗り越え、アリゾナ砂漠やアマゾンの密林も駆け抜けてマゼラン海峡で寿命が尽きんの。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 17:38:27 ID:Z0ROIJVZ0
それなんて銀英伝の自由惑星同盟

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 08:54:46 ID:D03/9BtSO
もう一緒よ、陥落よ

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/23(金) 11:00:46 ID:4l4u9VpL0
そらそうよ

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 15:39:06 ID:9RKvcruS0
あげ

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 18:10:27 ID:fa1iQvj80
ホウトウかジョショがいればリクソン、リョウモウとも戦えただろうに

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 19:11:45 ID:vfv1TmgU0
〜がいればは耳にタコじゃわ

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 20:13:37 ID:8AkTSRB70
しょうがないよ。ゲームとかで、どこにどのキャラを配置するとか
そんな次元のレスなんだから。

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 12:35:09 ID:lA/LAaZd0
「それが荊州の仕様だ」

 これが、私が考えた戦略だ。
 荊州問題についていろいろ言う人もいるかもしれない。
 それは対応する関羽がこの戦略に合わせてもらうしかない。

 荊州の兵力はこれ以上増やしたくないし、人材もこれ以上投入したくなかった。
 士仁と麋芳も狙ったもの。それが仕様。
 これは僕が練った戦略で、そういう仕様にしている。
 明確な意志を持ってるのであって、間違ったわけではない。
 後漢末で一番美しい配置を作ったと思う。
 著名兵法家が提案した策に対して人材の配置がおかしいと難癖をつける人はいない。
 それと同じこと。

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 12:40:27 ID:zXz9nRyr0
>>392
久多良木乙

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 17:52:03 ID:7HOt2JVM0
>>357
于禁はなんで対策とれなかったのかねえ。
ホウトクは水軍で関羽に抵抗しているんだよね。
まあ、あっさり関羽に撃退されているんだけどさ。
この軍は南下しているわけだから、川わたっているはずで、
むしろまだ川渡ってない関羽よりも水軍の手持ちはあったはず。
まあ刑州の水軍のほうは優れていたという話かもしれんけどね。
>>362
ていうか徐晃も単独じゃないからなあ。
最初は小勢だったけど、曹操が直属の軍の割いて援軍おくって、
苑周辺から軍を募って、つまり動かせる軍を全て送って、
やっと勝っている。
それも関羽の場合は、水害で食料の輸送もままならず。
後方支援をやっていた士仁とビ芳がサボっていた、水害で出来なかっただけかもしれないけどね。
さらに途中でこれが失陥してはさまれる格好になった。
だから引いただけとも読める。
徐晃がかったのは、せいぜい5000だけのような。

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 19:29:43 ID:9PhTC1d60
>>394

>于禁はなんで対策とれなかったのかねえ。

襄陽の水軍は全部関羽が脱出時に夏口に持っていったはず(それから江陵に)。
事実上曹魏の荊州水軍はもぬけの殻で、あっても小船程度で組織的な戦闘は不可能だと思うよ。


>この軍は南下しているわけだから、川わたっているはずで

川ってどの川のこと?漢水なら渡ってないよ。
于禁が関羽を討つために曹仁に遣わしたって武帝紀の記述なんだろうけど、
于禁伝、先主伝、関羽伝、曹仁伝にはしっかり曹仁を助けるためと書いてある。
決定的なのは先主伝の記述で「樊城で捕虜にした」とある。
もし漢水を渡っているのならば「襄陽で〜」となるだろうし、呂常の記述がないとおかしい。

ちなみにこの洪水は大洪水だったと思われ。どこかに詳しい考察があったような気がする。
大体の各記述は「秋(7〜9月)に大雨」「8月に大雨」で整合してるから関羽が攻めた8月が凄かったんだろう。
範囲もハンパなかったらしい。この年は「閏10月」があったらしいので、
仮に8月に大洪水が始まったとして徐晃の大反撃が12月(つまり12月には水が引いていた)だから
8・9・10・閏10月・11月と少なめに見積もっても4ヶ月は水が引かなかったことになる・・・・とかなんとか。



396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 19:38:17 ID:9PhTC1d60
>ていうか徐晃も単独じゃないからなあ。

関羽も単独じゃないと思います。

>最初は小勢だったけど、曹操が直属の軍の割いて援軍おくって、
>苑周辺から軍を募って、つまり動かせる軍を全て送って、
>やっと勝っている。

あせりの最中に、徴兵したばかりの新兵(しかも最近反乱を起こした地の兵。史書にも豊かさゆえの重税で反曹感情があったとある地)
をいきなり投入せず、各個撃破を用心して兵が集うの待ったのは名将の判断と思いませんか?

>徐晃がかったのは、せいぜい5000だけのような。

漢水に叩き落して溺死者が溢れるくらいの大勝と読めます。
漢水北岸から退けたということは曹魏の第一目標を達成したということ。
上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。
戦闘組織としては壊滅ですがな。(そういったら于禁はどーなる!と言われれば・・・・)

397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/30(金) 20:27:56 ID:+A8QGAlk0
魏書は勝った時も分けた時も大袈裟なので、負けた時はぼかすから
そのままでは信じられないが…

徐晃はあれほどの活躍は派遣当初は期待されてなかっただろうと思う。
曹操の本命は兵力、兵質から考えれば于禁だったはずだし。
自分が到着するまでの時間稼ぎをやってくれれば良しとしたように思う。

398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 01:10:48 ID:KKtt1FVy0
>>396
なんだか認識がおかしくないか?
徐晃は、自身の四冢攻撃へ対応すべく歩騎5千を率いてきた関羽を撃退し、
そのまま包囲陣地を攻撃してこれを突破して解囲に成功したんであって、
関羽率いる5千を殲滅したわけじゃないよ。
漢水に落ちて死んだものがいたからと言って、関羽の5千が殲滅されたとは限らない。
だから、「2万が5千を失ったら…」という書き方は変。

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 05:21:07 ID:rsWtQRYd0
徐晃厨なんだろ。それかアンチ関羽厨
観察と思惟に私情がこもってるうちはまだまだよ。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 18:21:09 ID:sxMN3YtO0
>>398

賊圍頭有屯←これは「頭の包囲陣地」と読むと思ってる。
ちくまの「囲頭(地名)」は珍訳。
「頭」という地名があるのなら整合性ができる。

晃揚声當攻圍頭屯←もう一度使ってるから「頭(地名)の包囲陣地」でほぼ間違いない。
これを元に徐晃伝をよく読むと、関羽の陣地はこうなっていたと思う

    頭(包囲の一角)
偃城<  >|樊城|--本陣--|漢水|
    四家(包囲の一角)

徐晃は奪った偃城から出撃して頭を攻撃すると見せかけて四家を攻撃、
四家が破られそうになったので関羽が歩騎5000で援軍に行くも、諸共破った。
関羽伝に言わせると「羽不能克 引軍退還」
つまり徐晃は敵を分散させて撃破してるわけ。
包囲の一部を破っただけなら溺死者とか出ないでしょ?
つまり「引軍退還」に何が起こったかといえば、正に「遂追陷與・圍破之」になるわけだ。

>>397
>魏書は勝った時も分けた時も大袈裟なので、負けた時はぼかすから
>そのままでは信じられないが…

どうみても庇われてるのが関羽。

>>399
>徐晃厨なんだろ。それかアンチ関羽厨

自分の主張をバックアップする何かを展開してくださいね

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 18:30:55 ID:QErsY24M0
話ぶった切って、
荊州失陥を関羽の部下統率・対呉交渉の失敗とするなら
それに歯止めを掛けうる人物として劉gを推しとく>>289で一度出たきりだけど

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:22:11 ID:M2rbZ6gT0
>>395
>襄陽の水軍は全部関羽が脱出時に夏口に持っていったはず(それから江陵に)。

何年前の話だよ。
ていうか、その後刑州の水軍を摂取しているはずで、
水軍を持ってないなんてありえない。
関羽軍よりも、大規模な水軍をもっててもおかしくないよ。

>もし漢水を渡っているのならば「襄陽で〜」となるだろうし、呂常の記述がないとおかしい。

地図を見る限り、渡ってないと、そこまでいけないよ。
ていうか襄庸の救援も当然任務に含まれるわけなんだから、
渡河の容易がないわけないだろ。

>ちなみにこの洪水は大洪水だったと思われ。どこかに詳しい考察があったような気がする。

ちなみに、この水害によって、食料輸送が滞った結果、
関羽が敗れたという説もあるね。自軍と同規模の捕虜を受け入れたのがまずかったんだが。
当初容易していたのの、倍の食料を必要とするわけだし。

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:35:37 ID:M2rbZ6gT0
>>356
>各個撃破を用心して兵が集うの待ったのは名将の判断と思いませんか?

つまり関羽よりも数をそろえるまでまって、
数の優位で勝っただけだろ。
関羽のほうは、半年近くも対陣してて、連戦中。
食料輸送もままならず、さらに刑州が陥落。
だから撤退したとも読める。

>上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。

いやだから、5000に勝っても、そのうちの損耗率なんて一割あるかないかなんだけど。
5000人首とったとか記述されてたら、その軍を全滅したと読めるけどさ。
そういうケースの場合は、きちんとそう記述されてる。

>漢水北岸から退けたということは曹魏の第一目標を達成したということ。

出陣した一部隊を叩いただけなんですが。
なんで全軍を追い払ったかのように解釈するのがなぞです。
>>400
あのさ、あなたは自分の都合のいいように史書を読みすぎだ。
漢文ってのは、かなり幅広く読めるから、そういうこともあるけど、
とくに上段のところは、あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要で、
それが証明されていない。
その過程の上に、過程を重ねても、斬新な新説(または珍説)というレベルでしかない。
あなたがそれを主張するのは自由だが、
それを他者に納得させるのは無理だよ。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:51:36 ID:sxMN3YtO0
>>402

>地図を見る限り、渡ってないと、そこまでいけないよ。

いや、樊城に行くにはシ育水を渡る必要はあるけど、シ又水(漢水)必要はない。
というか、シ又水を渡ると曹仁を無視してしまうし、それどころか補給を無視してしまう。
先主伝に樊で于禁を捕らえたとあるので、これを否定するならば別の証拠が必要。


>ていうか襄庸の救援も当然任務に含まれるわけなんだから、
>渡河の容易がないわけないだろ

樊城と襄陽は対岸の双子城。そのくらいの船が無いはずがないよw
水軍が無いといったのは、

・まず明確に関羽が樊襄脱出時に水軍を率いていた事
・夏口の水軍曹操の手には落ちて無い事
・江陵の水軍は曹操が赤壁撤退時に焼き払っている事

これらを省みるに、大規模な水軍は保持していなかったことが推察できる。
因みに9年経ってるけど、江陵を捨てた(軍港を捨てた=水上戦を諦めた=長江以南の荊南を一時的に諦めた)
のにワザワザ艦船を作ったとは思えない。


405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 19:57:45 ID:sxMN3YtO0
>>403

>出陣した一部隊を叩いただけなんですが。
>なんで全軍を追い払ったかのように解釈するのがなぞです。

ほほう?
関羽は明らかに北の方まで陣地を構築していたのは間違いないのですが、
それらを尽く撃ち破られてシ又水(漢水)北岸から撤退して追撃されているのですが、
どの辺が一部隊を追い払っただけなんでしょうか?
関羽を一部隊というならあなたが正しいですけど。



406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:02:40 ID:CuWKt6xeO
なんでわざわざ中国語簡体字で表記するの?

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:03:13 ID:sxMN3YtO0
>>403続き
>漢文ってのは、かなり幅広く読めるから、そういうこともあるけど、
>とくに上段のところは、あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要で、
>それが証明されていない

うーん、なんとも言えないね。
仮にちくまの通りに「囲頭」という地名だとしても、ここに関羽の別働隊というか樊城包囲の一角が有ったのは間違いない。
徐晃がこっちに陽動したのも記述がある。

なので、
>あなたの独自の解釈がただしいというという前提が必要
ではない。

徐晃伝に書かれてるままを書いただけに過ぎないんですが。

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:13:56 ID:M2rbZ6gT0
>>404
>いや、樊城に行くにはシ育水を渡る必要はあるけど、シ又水(漢水)必要はない。

進路から考えると、丹水を利用しないとは思えんのだが。

>これらを省みるに、大規模な水軍は保持していなかったことが推察できる。

だからそれがあなたの妄想なんだってば。
焼き払ったといっても、水軍を一隻残らず焼き払ったわけじゃないし、
10年近くもなにもしなかったなんて普通ありえんってば。
赤壁で負けたあとも、刑州南部は維持しようとしていたし。
軍船を全て始末するなんてありえん。
ていうか、十分な水軍がなけりゃ、上庸も、襄陽も守れんぞ。

>それらを尽く撃ち破られてシ又水(漢水)北岸から撤退して追撃されているのですが、

そんなことはどこにも触れられてません。
刑州が陥落したので、撤退しただけかもしれませんしねえ。
ていうか、確定していないことを、自説を根拠に言われても。。。

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 20:16:52 ID:M2rbZ6gT0
>どの辺が一部隊を追い払っただけなんでしょうか?

徐晃伝に記されていることは、5000の兵を破ったとするだけです。
それ以上は、全軍を打ち破ったのか。
さっさと撤退したのか、わかりませんよ。

>徐晃伝に書かれてるままを書いただけに過ぎないんですが。

そのままかいてないじゃないですかw
過程が増えすぎです。


410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 21:19:12 ID:rsWtQRYd0
5000が継戦能力を喪失したのは確実だろう。
>上の方に関羽軍の兵数概算が出てたけど、仮に2万が5千を失ったら25%の死傷率。
↑の「死傷率」という表現が問題。
これでは河で大半が溺死したと取られかねない。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 23:58:31 ID:sxMN3YtO0
>>408

>進路から考えると、丹水を利用しないとは思えんのだが。

于禁がどこから来たのかわかるの?
7月に于禁を派遣したとあるだけで、何処から来たとか具体的な規模とかまったく不明のような気がするんだけど。

丹水って書いてることからして長安からとのことだろうけど、当時にあの山岳地帯を軍で抜けるのは無理じゃない?
今でこそ商州盆地がそこそこ栄えてるけど・・・この時代はほとんど川の合流地点まで無人だべ・・・

>だからそれがあなたの妄想なんだってば。
>焼き払ったといっても、水軍を一隻残らず焼き払ったわけじゃないし、
>10年近くもなにもしなかったなんて普通ありえんってば。

私は無いと信じるに足る状況を「推定」したけど(無いものは証明できないからね)
あなたは水軍があったことを証明若しくは何かしらの手がかりから証明できますか?
なにしろ水軍の記述はまったくないと思いますので、一つお願いします。
「普通ありえんってば」←これこそが主観じゃないですかね?

>赤壁で負けたあとも、刑州南部は維持しようとしていたし

江陵=荊南ではないでしょう。

>ていうか、十分な水軍がなけりゃ、上庸も、襄陽も守れんぞ。

上庸?水路とはほとんど関係ないと思いますが・・・?
襄陽はそのとおり220年に放棄されましたがね。
曹魏が再び襄陽を手中に収めた時はあまりにもあっさりだったことから、孫呉も襄陽の維持は難しかったんでしょ。


>刑州が陥落したので、撤退しただけかもしれませんしねえ。

いや、関羽部隊5000を破った後に、追撃して勝ったと記述されてるんですが・・・
あなたは人に客観性を求める割に、自分は随分と主観的ですね。

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 00:46:32 ID:25uyZxT70
孫呉の場合、劉備が東征に来るから戦線を整理しただけだろ。

5千を破ったあと、包囲陣に逃げ込む敵に続いて打ち破ったというのは両者ともに一致してるのに何で揉めるのか?
まあ包囲は継続不可能だな。追撃でどの程度死んだかは不明。
曹仁が早々に退却してれば徐晃の勝利は危うかっただろうが、関羽は兵力分散のミスを犯した。
雑軍の徐晃さえあしらえないのだから曹操本軍に勝てるわけがない。
さっさと引くべきだったな。

>水軍
自主的に焼いたのではなく呉軍に焼かれただけだろ。

あんたら両方とも主観的で感情的、挑発的だぜ。落ち着け。

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 00:48:14 ID:At5OGYyp0
論争はどうでもいいが
シ又水(漢水)
という面白い表記が気になって仕方ない

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 08:09:39 ID:yy2essQx0
>>412
劉備に負けた年老いた曹操じゃ、
多分徐晃以上の働きは、前線では出来ないんじゃないかな?
ご自慢の軍師達もポックリ&引退始めてるし。
司馬懿は許昌の反乱で動けない。

つーか、ここで、曹操が離れたら、
許昌以外でも、大きな反乱呼ぶ気がするんですが?

文皇帝は、早くオヤジ死なねえかな〜とか考えてたら笑う。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:03:13 ID:t0KFjvMM0
>>414
動員兵力的に格が違う。
于禁が敗れたからには、このとき四方将軍にもなれてない徐晃は
曹操自身または夏侯惇までの繋ぎ程度のつもりだったはずで、
対呉戦線から張遼他を根こそぎ向かわせてる最中だった。
結局徐晃で勝っちゃったけど。

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:21:59 ID:yy2essQx0
徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうがw
あんたはそればかりだな…
つーか反乱の話はスルー?くだらないねぇ。
ここはIFを語るスレってーの忘れてませんか?

だからぶっちゃけ面白くないねぇ。新しい話題だしてよ。
オレより頭良いみたいだし。

417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:31:46 ID:yy2essQx0
>>415
もうトリップ付けろ。

418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:41:49 ID:t0KFjvMM0
俺このスレに書き込んだの>>401しかないよ。
先入観で目が眩みすぎだな。自分にレスする人間は全部敵なのか?
単に「対呉方面からの増援が到着する前に勝った」と書いただけなんだが。
yy2essQx0こそ落ち着いた方がいい

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 10:52:37 ID:yy2essQx0
>>418
ID変われば、誰がだれだか解らんよ。

反乱の話はスルーのくせに…まったく。

つーか、
>徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうが
>>415の反論はコレに適切じゃないんだけれど?

420 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:08:42 ID:t0KFjvMM0
アチャー…ダメダコリャ
うん、一応トリはつけておくよ。夕べ長文討論してた人が来て
反乱の件にレスしてくれるのを期待しよう

話は面白く読ませてもらったけど、兵数推定とかめんどくさくて俺はいいや

>つーか、
>>徐晃だけで勝った訳じゃないって、前の方のレスであるだろうが
>>>415の反論はコレに適切じゃないんだけれど?
言ってることがよく解らないな。「徐晃だけで勝ったわけじゃない」への反論として
>>415を書いたつもりではないんだけど。

421 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:19:18 ID:t0KFjvMM0
……。あー、反乱って関羽が呼応した宛の件とかじゃなくて、
曹操が動いたら魏の本土が危ないってことね?
うん、そう思うよ。曹操は動けないだろうね。
俺は>>414の、「もし曹操が来ても徐晃以上の意味はない」に反論しただけなんだ。

戦陣が長引いて魏の南方軍が集結して大規模な戦線を構築しなおすとしたら、
その総司令官になれるのは曹操か夏侯惇くらいしかいない。
司馬懿は若すぎる。徐晃張遼は武官にすぎない。
「耄碌してるから役に立たない」なんてのは有り得ないよ。格が二つは違うんだから。

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:36:55 ID:yy2essQx0
>>421
なんで関羽を倒す案を出すんだよ。しかも魏ばっか。
逆だろ?スレ的に。

>その総司令官になれるのは曹操か夏侯惇くらいしかいない
夏侯惇は無いだろうね。高順に負けたり劉備に負けたり。
この人功績調べたら、でら少ないな…

呉を語る人いたら面白いのになー。
関羽は魏相手だけだったら、少なくとも死ななかったと思うんだよね。

423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:37:49 ID:A2OfRynL0
曹真と曹休がいるじゃん

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:47:30 ID:A2OfRynL0
曹操の息子達もいるしな

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:49:37 ID:yy2essQx0
>>423
この時期は確か、曹真は偏将軍、曹休が領軍将軍。
活躍すれど、まだ下っ端だよね。
この時期には、とても大軍の司令官には為りえない。

魏書ってややっこしいよね。
戦果は5倍、被害は5分の1で書いてあるらしいから。

426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 11:52:30 ID:yy2essQx0
>>424
息子達は、兄弟の権力争いで、それどころではないですなぁw

427 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 11:57:44 ID:t0KFjvMM0
>>422
あー…今更夏侯惇の功績云々言う人か…
ゲームじゃないんだから、夏侯惇兵力二万、張遼一万とかいう差じゃないんだよ。

反論できないとそもそも論を持ち出すのって言い逃れの常套だ
夕べの人たちとは関係ないみたいだし、辞めにする。

428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:04:41 ID:VxaBvXCT0
>>427
そういうなよ。
具体的な話が出来ない人たちは空気スルーしてくれ。
討論を楽しみにROMってる人もいるんだ。

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:04:45 ID:A2OfRynL0
>>421
張遼の官位は結構高かったと思うし、司馬懿は官位はどの程度か知らんけど
実戦経験がほとんど無かったと思うし、曹操の部下というよりは曹丕の部下
という感じがするな。

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:10:56 ID:VxaBvXCT0
寿春からの夏侯惇はナント二十六軍(張遼もその中の将)。
単純にみて于禁七軍の4倍以上で、魏でもっとも信頼される将軍と魏で最強の将軍がいるんだから関羽に勝ち目はない。
夏侯惇は将の将なんだから戦績とかは関係ないdえしょ。
彼の特筆すべきは二十六軍という桁外れの軍を任されるだけの位と信頼があったということだけ。

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:14:45 ID:A2OfRynL0
城を数ヶ月包囲して落とせず、補給は滞り、敵の援軍に負けたら
普通撤退するでしょう。何千、何万人討ち取っただの、敵の武将を
討ち取っただの、大勝したみたいな具体的な記述が無い以上、ただ
勝っただけだろうね。張コウが長江中州の砦を占領した時は数千人が
溺死したという記述があるが、この時は溺死した人がいたとしか書いて
ないから、大した人数ではないだろう。

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:20:25 ID:yy2essQx0
>>427
呉に触れずに、呂蒙と陸遜の話題もださいなんて話にならないですか…
あのさ、呉の関わらない、関羽の刑州北上ってどんなIFだよw

あなたの方がゲームに侵されているね。
では、貴方の方が詳しい様なので、
夏侯惇の将才から語ってもらおうかなw

夏侯惇が大軍を率いて戦って勝ったって何所で、どれ?
あ、217年の呉との和睦は禁止ね。
大軍で、濡須口(居巣湖?)で、留守番してたら、
呉が使者送ってきただけだし。
曹操指示による、策略はあっただろうが。

反論出来ないのはあんただろ?
呉関係の話を絡めてから言い逃れしてねw

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 12:57:40 ID:yy2essQx0
>>430
大軍を率いれば将の将?馬鹿は言わない方が良い。
光武帝の雲台二十八将筆頭のケ禹だって、
大軍を率いても赤眉軍に破れているのだからね。

光武帝から見た武将としてのケ禹は、曹操から見た夏侯惇と同じ様なもの。
だから、大軍率いただけで戦果を出せていないのに、
将の将とか言い出すのはちょっと恥ずかしいですよ?

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:29:11 ID:VxaBvXCT0
>>433

あんた何ムキになってんの?w
そもそもあんたが>>422で夏侯惇が司令官ってありえないとかいう意味不明なこと言い始めたのが始まりじゃん。
どーしてそっから夏侯惇の将才を書けとかになるの?
自分の書いたこともういちど見直そうねw

現 実 に 夏 侯 惇 は 総 司 令 官 格 で 向 か っ て る の に w 


435 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 13:42:02 ID:q5x+Uuox0
『曹魏軍中における曹操(or夏侯惇)と徐晃の地位の差』だけが
>>412
>雑軍の徐晃さえあしらえないのだから曹操本軍に勝てるわけがない。
から抽出された一連の話の論点だったはずなのに、
なんで呉の話を持ち出して話を複雑化しようとするのかわからない。

師団長が鬼のように強いので(確かに強いだろう。五将の戦闘の強さは
互角の地位でさえあったら夏侯惇・夏侯淵とは比べられなかっただろう)
一個方面軍や中央軍を動かす必要は無い。返って邪魔。とyy2essQx0は言ってるんだよ。
結果的に師団規模だけで勝っちゃうことは有り得るが、
戦略的にそんな見込みを立てるなんてことは有り得ない。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:46:55 ID:yy2essQx0
>>434
>あんた何ムキになってんの?w
なら、将の将とかの言葉を使わない方が良かったかもね。
ムキになってるのはどっちかなw
スレタイすら理解出来ないのかなw
呉の話は何時出てくるのw
関羽に変わる人材の話は、何時出てくるのかしらw

ID:VxaBvXCT0さんは、
夏侯惇の将才を、将の将と言っている時点で論外でーす♪

>自分の書いたこともういちど見直そうね
>>422から見直した。
で、あんたら、呉の話題を話さない。魏の援護射撃ばっかり。蜀の話題も皆無。
スレ違いですよ?

関羽は何があっても負けますと述べるなら、
関羽に変わる人材を、蜀の人材から推挙するのが、本当の反論なんだけどね。

スレタイが、魏vs関羽とかならこの流も解るけれど、
ハッキリ言って、魏の話題だけの人は話にならない。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:59:00 ID:MUGxZgu80
どんなに良い内容でも、そんな挑発的な書き方じゃ議論にならんぞどちらも。

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:01:47 ID:VxaBvXCT0
ID:yy2essQx0は健忘症か?

自分で夏侯惇が総司令官なんてありえないニダ!
→二十六軍を束ねる総司令官として向かってますw

将才を書くニダ!将の将なんて書くニダ!
→張遼など将軍達の上の将軍として指揮していますw
→将才の如何に関わらず現実としてそういう形容ができますw

呉の話を書くニダ!おまえら俺の話をきけ!!全員スレタイと違うこと話てる!!!ふぁびょ〜ん!!!!
→今までの流れから呉の話をしたいなら自分から振りなさいよw


なんか、もう、孤立無援でよく頑張ったな・・・まるで関羽みたいだw

439 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:02:00 ID:q5x+Uuox0
曹操・夏侯惇の二人が摩陂で落ち合うという事態は、
関羽の曹仁攻撃が魏にとってどれほど重大な危機だったかを示すものだ。
その重大さを明らかにせず、「徐晃がいれば曹操はいらない」というような
態度を取るのは、関羽の行動を恐ろしく過小評価するもの。
まず価値認識を統一しなければ、別の問題を語れない。
(並列的に語るのは構わないが)

複合する無数の問題をごちゃ混ぜにして一度に論じようとするのは
論点が際限なくぼけて拡大していくだけで纏めることはできない。
議論の下の下だよ。

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:04:08 ID:yy2essQx0
>>435
于禁七軍は方面軍クラスだと思うのだが、実際はどうだったんですかね?

于禁七軍を天災とはいえ破っている関羽、
でも呉が介入しなくても、やっぱり撤退してただろうね。
でも、そうすると劉備が怖いよね。援軍に来るか、それとも長安を狙うか。

441 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:04:35 ID:q5x+Uuox0
てか、>>421訂正。曹操ちゃんと南下してるよなあ。

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:07:20 ID:yy2essQx0
>>438
うわ、人格攻撃できたかw

あはは、あんたの勝ちでいいよ。天国でも祈ってなw

443 : ◆vSl3XmROyk :2007/12/02(日) 14:12:10 ID:q5x+Uuox0
>>440
規模は夏侯惇と違うけど、于禁はこのとき左将軍、楽進は死亡してるけど右将軍。
外様の武官ではこの二人の地位は頭半分抜けている。
張遼・徐晃・張コウは曹丕が王位に付いた(于禁降伏後)ときに四方将軍になっている。
多分に曹操への帰順の時期の問題だろうけど、
于禁は曹操に最も信頼された将であるし、曹仁救援の本命だったと思うよ
それが壊滅しちゃったもんだから許都は泡食った

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:13:23 ID:yy2essQx0
当時の三国の認識ってどんなかな


やべえ、このままでは許都がおつる!


ちゃーんす♪


無茶しやがって…

こんな感じかな?

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:19:17 ID:7borvYBL0
レベルが違いすぐる

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 14:19:45 ID:yy2essQx0
>>443
つまり于禁で事足ると、魏諸侯(曹操本人?)は考えていたと…
曹操の嘆きも凄かったですねぇ。
30年于禁を見てきたが、龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった。
みたいな。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:18:54 ID:eTBJUKtU0
ID:yy2essQx0って物言いがいちいち高圧的だったり挑発気味なんだな

どちらもかもしれんけど、初めから相手の意見は認めない(論破してやるよ)って
空気を前面に出しすぎてて読んでても不快でかなわんわ

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:20:48 ID:At5OGYyp0
袁紹のところに現れた奴っぽいな

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 15:34:50 ID:yy2essQx0
>>447
すまねえ、◆vSl3XmROykさんには謝罪する。
私が悪いからね。
>>448
それオレじゃないぞ?

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:14:19 ID:yy2essQx0
>>428
スルー以前に、お前の後の暴言が一番酷いね。主観的に。
>>430
夏侯惇如きが、将の将?
意味解ってねえのなら、調べてから言葉を使えや。
夏侯惇は将の将の中で、必要な物はカリスマしか満たしてねえよ。 プゲラw

>>434
>現 実 に 夏 侯 惇 は 総 司 令 官 格 で 向 か っ て る の に w

そ れ が 功 績 な の で す か ? w
向 か う だ け で 功 績 な の ? w バ ー カ バ ー カ w

>>438
お前がファビョってどうするのさw
総司令官は曹操だろうが。魏はまだ漢帝国の中の国だぞ?
曹操はいわば忠義の無い韓信だ。

>張遼など将軍達の上の将軍として指揮しています
だから?その部下を使った戦いは?

>今までの流れから呉の話をしたいなら自分から振りなさいよ
スレタイ見ろ莫迦w

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:15:36 ID:yy2essQx0
すまぬ…書いて消そうと思ったら間違えて、カキコしてしまった…
もうしわけない…

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:15:38 ID:At5OGYyp0
>>449
>>450
もはや笑うしかないな

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 16:22:02 ID:yy2essQx0
>>452
反応早いですね、暇なの?高圧的な人。

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 19:05:22 ID:5Q+0um9i0
>>453
ROM専だが一言。
もうやめておいたほうが良くないか?

ああそれと。
スレと本来関係ない関羽の北上に対する曹操の戦略、読ませてもらって非常に面白い。
いかに関羽の武威に対処するかで、蒼白になった曹操というのが浮き彫りになって良い。
漢王朝の名の下に朝敵認定しても、実際の武威が衰えないから(すでに劉備の漢中王僭称で
反曹の人心をいくらか掴んでもいるし)、曹操としても非常に危機感をもったに違いない。

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 19:36:39 ID:d4vfAxZQ0
>>401

彼がこの時期まで生きていたら結構微妙な立場、
劉王章みたいな感じになってないだろうか??
早い段階で消されていた気がする。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 20:41:27 ID:q5x+Uuox0
>>455
やっと乗ってくれる人がいたので俺食いついちゃうぜ

蜀陣営の生者死者離反者全部ひっくるめても
督荊州を任せられるのは関羽以外にはいない。
というのが俺の結論。
あとは関羽の性格から来る政治的センスの無さを
どうフォローするかになる。

知謀の問題ならホウ統になるんだろうけど、
やはり関羽に軽視される可能性はある。
荊州人士を取りまとめるには、劉表の子で
赤壁直後から荊州刺史に就いている劉gという
選択がベターに思う。

あとは劉備・劉g・関羽の人間関係次第で、
関羽と仲違いする可能性はやっぱりあるんだけど、
劉備と劉gの関係は悪くなかったと思う。
共に危機を乗り越えた仲だし、諸葛亮らと交流があった。
「俺は蜀に入るので荊州の纏めは頼んだ」みたいな
会話をしててもおかしくないし、劉備には必要だったと思う。
まあ劉gが欲を持って軍権を関羽に握られてることを
不満に思ったりしたら荊州総寝返りだけどさ

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 20:45:06 ID:25uyZxT70
>ID:yy2essQx0
>>414の段階ではそんな変なことは言ってないが、
過剰反応を示す必要のない突っ込みで動揺しすぎ。厨二病のような罵倒をしすぎ。
これでは補助しようにも支えようがない。
敵を攻撃するのは別にいいが、味方からも見限られるような言動はやめた方がいい。不毛

あと、夏侯惇単体が微妙でも先鋒に張遼がいれば同じことだろう。
劉備との戦いも完全な敗北という訳ではなく、
李典のような補佐があれば一流どころとそれなりに渡合える。
それでいて兵站と兵力で優越していれば勝利は確実だろう。
関羽軍団の攻勢限界は于禁を撃破したころには余裕はあったが、
徐晃の反撃体制が整う頃には勝ち戦の勢い自体が尽きている。
これでは徐晃、張遼が途中で病死したとしても、夏侯惇に手柄を献上したことだろう。
名将同士の戦いは戦術指揮よりも謀略で決まる。
戦略の段階で関羽は詰んでる。
それを何故劉備ら蜀漢首脳部は修正しなかったのだろうか?と思う。
関羽は外交感覚の欠如した愚将ではあるが、勢力均衡を崩すのに必要な強将であったのは確かだ。

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:00:27 ID:yy2essQx0
>>457

>>428>>430の発言が無ければ、ここまで暴走しませんでした。

>あと、夏侯惇単体が微妙でも先鋒に張遼がいれば同じことだろう。
来てないから、関羽とは戦えないでしょう?
劉封軍の助けが来たと言っているのと、同じレベルのIFではないですか?

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:07:21 ID:25uyZxT70
>>458
自分の失敗を他人の責任にするのは最悪の敗北だ。
それを認識した方が今後の論客人生において有益。
勝ちを分けに、分けを負けにするような話し方は改めてから来い。
進む勇気以上に退く勇気が、今の貴方や当時の関羽には必要。

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:22:24 ID:yy2essQx0
>>459
>自分の失敗を他人の責任にするのは最悪の敗北だ
世の中そんなに甘くないだろう。
足を引っ張る他人は常に居る。
それを自己で分析し結果を出したのだから、
其処まで言われる筋合いは無い。

っと、関羽や私はそう見えるのだな?
以後気を付ける事を約束しておこう。

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:25:35 ID:q5x+Uuox0
>>457
一つには、そのとき既に劉備には曹孫劉三陣営全体の
国家戦略をデザインできる人材が残っていなかったこと。
孫権に後ろからがっつりいかれる可能性を少なく見ていたんだろう。
関羽が揉め事を起こしていることも伝わっていなかっただろうし。

曹操の中軍や対呉軍が迎撃に出たとしても、
関羽は襄陽近辺から撃退されるだけで、江陵まで戻れば問題ない(はずだった)。
曹操がそれ以上深入りすれば、蜀と呉から一気に侵攻する絶好の機会になる。
孫権は曹操(後漢)に藩国の礼を取って数年経つけど
蜀に対しては「ポーズっすよポーズ、サーセンwww」
みたいな言い訳してただろうし、もし襄陽近辺を取れてさえいれば
再び呉が寝返る可能性は十分あったと思う。
逆に言うと曹操は樊城が落ちてからでは全てが遅いので、
対呉戦力を引っこ抜いてでも護る必要があった。

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 21:28:44 ID:zzCl13iq0
>>411
>丹水って書いてることからして長安からとのことだろうけど、当時にあの山岳地帯を軍で抜けるのは無理じゃない?

普通にエンのほうからじゃないのかな?
だから丹水とした。当時の街道まではわからんのでな。
川沿いにしといた。ここなら水運が使える。
長安ってことはよいよ上流からだなあ。さすがにそこからはな。
そこからエンをつたってくらいは考えられるが。

>私は無いと信じるに足る状況を「推定」したけど(無いものは証明できないからね)

いやそれで信じられるのはあなたくらいではないかと。
関羽が全部もっていったってのもあやしいし、
赤壁で全滅したってのもありえないし、
その後再建していないというのはありえないよ。
そして襄陽の救援をするなら、確実に水軍が必要なんだから、ないわけないだろ。
もしなかったとしたら、どうやってわたるよ、小船だけでわたる?
それこそ、関羽や呉に狙われるだろうが。遮断されたら食料の輸送もできなくなるし。

>江陵=荊南ではないでしょう。

南部四郡のことですよ、赤壁後も曹家の支配地域でしたから、
その後劉備に掠め取られましたが。

>上庸?水路とはほとんど関係ないと思いますが・・・?

いや普通に水運が利用できる。
蜀も思案のひとつとして考えていた。

>いや、関羽部隊5000を破った後に、追撃して勝ったと記述されてるんですが・・・

だから、その5000を追撃しただけでしょ。
陣地が全て突破されたわけでもないし
そこで関羽軍が崩壊したわけでもない。

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 22:00:33 ID:5Q+0um9i0
荊州南郡とは江陵のことですよ。

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 22:51:14 ID:VxaBvXCT0
>>462
丹水は宛と全然関係なくね?
宛から樊襄のやや下流に合流する川は育水だよ。
ちなみにこの川を軍の移動に利用したって聞いたことないな。

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 01:04:24 ID:3SjvJhrc0
横スレするけど、関羽軍が徐晃に受けた損害の話ですが、
徐晃が関羽の包囲網を破った後も関羽は襄陽を包囲し続けていたので、
徐晃が関羽全軍に致命的な損害を与えたという事はないでしょうし、
関羽が引き入れる兵数を考慮すれば、例え5千+包囲網の一角が破られたというだけの
話であっても、その内の多数が討ち取られたとかという程の規模でさえもないと思う。
仮に関羽軍が2万5千とするならばその一割である2500人が死傷するだけで大敗という事になり
軍の維持が困難になるであろうし、特にその対象が関羽直下の兵であろう五千人が、
事にならば益々そうなる。

あと関羽が荊州から船を全部持っていったというのは普通に有り得ない。
そもそも劉備自体が劉表の客将に過ぎない身分なのに、その配下の関羽が
どうして荊州水軍に指示を出して艦隊を操る事が出来るのかと。
さらに言えば劉備軍は劉g+劉備+関羽で1万程度という兵力しかいなという点、
仮に関羽が艦隊を持ち出したというならば、普通はもっと兵力がいるでしょう。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 01:49:21 ID:6vHts8HV0
>>465
うーん、ソースが石碑なんだけども襄陽の呂常が討って出て勝ったという話がある。
仮にこれがマユツバだとしても趙儼伝を読む限り、包囲を続けた可能性は低いと思う。

あと劉備軍は劉gの兵を合わせて2万以上居たと見るのが普通。
樊城に居たときに襄陽を武力奪取が可能だったくらいの兵は持ってたんだよ。
高々数千だったら襄陽を奪いましょうと進言する諸葛亮が道化になっちゃう。

あとこれはオマケだけど・・・
脱出の際関羽は確かに水軍で徐晃・満寵と交戦したと記述がある。
んで劉備を収容して夏口に行ったと。
関羽が襄陽の水軍をかっぱらった可能性は非常に高い。

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 03:09:13 ID:3SjvJhrc0
>>466
むしろ逆だと思うけど、
趙儼伝では「孫権が関羽の輜重を攻撃したために関羽は退いた」と書かれており、
それまで関羽軍はベン水を占拠し、襄陽包囲を取り続けていた。
あと包囲を続けるかどうかは状況の推移からして可能性は低くなるとは思うけど、
少なくとも徐晃との会戦だけでは関羽は軍を退かざるを得ない様な損害は受けてないって事になる。

そもそも樊城の時点では劉備は劉gと合流してさえいない。
そして劉g軍が一万だから、劉備単独である樊城の時点では1万前後程度でしょう、
それ以上の兵数は劉備の客将という身分を考えれば有り得ない、数千も普通にありうる。
また諸葛亮が襄陽を攻略する手段は具体的には語っておらず、
例えば内応工作によるものかもしれし、別に手段があったかもしれない
何故武力奪取であると断言できるのか?
むしろ曹操が背後に迫ってきてる段階では仮に2万以上居たところで襄陽を力攻めなんて自殺行為、
それを考えると単なる武力奪取とは考えにくいんだけど。

>脱出の際関羽は確かに水軍で徐晃・満寵と交戦したと記述がある。
これがなんで=関羽が襄陽の水軍をかっぱらった可能性は非常に高い。
になるのか理解できない、劉備だって自前で水軍くらい用意してただろう。
また劉備が収容されたのは追撃を受けて供回りだけを連れて逃げ回った時期だし、
つーか君の中段・下段はいくらなんでも論理の飛躍が激しすぎるよ。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 06:15:12 ID:3L44E3Nc0
んんん?
関羽の軍は関羽の物にならないのかな?
あの時点だと、独立性が高すぎる気がするんだが・・・
てか、g君は209年死亡ですよね?
関羽はg君の部下を10年近くも有るのに、GET出来なかったって事ですかい?

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 15:05:47 ID:2Kpx0nbV0
なんという良スレ、、、皆様の見識にただただ感服

勉強させていただきます

470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 22:00:18 ID:tP9gonGW0
すれたいのテーマを今頃考える。
関羽以外かあ。

ベストのチョイスをするなら、黄権に法正つけるのがベストなんだが。
もう法正は寿命がなあ。どちらも土地から離れるから、
兵士との関係が微妙になるかも、
刑州生え抜きの人間がいい。少なくとも、益州の名門あたりはさけといたほうがいいから、
李厳あたりか。馬忠、カクしゅんもつけとこう。

もしくは張飛に北上してもらって。
関羽が呉ににらみを聞かす、というのはどうだろうか。
ま。逆でもいいけど。
魏延は関中から動かせないし、というか、その場合ほかの奴を関中におかんとな。
諸葛亮も蜀の骨組みをつくらにゃならんから、益州から動けない。
ホウトウが生きていればなあ。

馬超は北上するなら、清涼の方と渡りつけるのに便利だから、はずせないし。
黄忠はいまいち実績が不明なんだよな。
劉備には買われていたようだから、有能なんだろうが。


471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 23:14:40 ID:RzuxDLSs0
蜀書読むと、馬良と楊儀は、劉備の入蜀には従わずに荊州に
残ったんだね。なのに馬良は劉備が召して蜀で侍中にしちゃう
し、楊儀は関羽が劉備に推薦して蜀に送っちゃってる

せっかく外交と内政にそれぞれ使えそうだったのに。関羽が彼
らを煙たかったのか、2人が関羽を敬遠して蜀に人事異動され
るように仕向けたのかも、と勘ぐってしまう

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 23:52:03 ID:eiIqSR0f0
荊州に置いていたら外交に使えないじゃない。
外交権はあくまで君主にあるもので、馬良もトウ芝も成都から出発してる。
で、入蜀から漢中確保まで劉備は蜀の掌握と首府体制の構築を慌しく
仕上げなければならなかったわけで、人材は成都と巴蜀の郡県に
集中させなければならなかった。その筆頭が諸葛亮だけど。

んでもって、現在三国志蜀書によって名が知られている人物の多くは、
結局のところ荊州失陥に巻き込まれず生き残った人々であって、
当時の荊州が不当なほど人材に困っていたわけではないだろうと思う。
人材の問題といえば劉備陣営内のどこにも外交・国家戦略を構築する、
言わば心理戦の領域で董昭や呂蒙らに匹敵する人間がいなかったことが問題になる。
諸葛亮はおそらく性格的にそれが苦手な分野で、
知恵者とされる法正も存命中なのに失陥を予期していない。彼らが現場にいれば
また別だったかもしれないけどそれは上記の理由でダメ、となる。
難しいね。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 01:21:25 ID:8Y/2ie1s0
やっぱり兵力不足に尽きるな。
3万だと一方面の攻勢も留守を考えると厳しい訳で、5万はいないとな・・・・
戦略的に寡勢で(局地的には多勢だったが)攻勢を掛けるのに孟達を上庸に向かわせたのは兵力の分散にもなってまずかった。

孟達とその兵を留守番にあて、代わりに兵をどこからか抽出して上庸に向かわせることは出来なかったのだろうか?
孟達の兵力が江陵にあったのなら無血開城とまではいかなかったかもしれない。

上庸は漢中と川で繋がっているが、例が無いところからして大規模な軍の交通手段として利用できた訳ではないのだろう。
矢張り巴西から白帝を通して房陵経由じゃないと無理か・・・?

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 05:24:13 ID:RzCMLa6L0
>>472
ま、益州が落ち着くまで、関羽は北上する必要はなかったんだよな。
せめて孫権との関係を正常化してから、すべきだった。
関羽としては、巴戦で共通の敵がおり、戦闘中にまで、
そこまで露骨にはしないだろうと思っていたんだろうが、
孫権はいろんな意味で、予測が外れていたと。

乗っ取り屋のプロの劉備とはいえ、
完全に掌握するまで、時間がかかるし、その間は、
人材を送れない。とくに文官達がみな懸かりっきり切りだったしな。

やるとしたら、巴蜀あたりから、張飛に刑州の押さえとして、
兵を一万か、二万でも連れてきてもらうしかないな。
そうすりゃ呂蒙も攻め込もうなんておもわんし、
せめても、張飛なら撃退するでしょ。
あとは食料の輸送のメドさえつけばなんとかなる、もしくは捕虜を殺ってしまうか。
>>473
蜀が進行ルートのひとつとして想定していたから、
大軍の移動手段としても可能と思われ(退却の困難さから没ったけど)

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 13:44:40 ID:G9M1wy8g0
>(退却の困難さから没ったけど)
戦術立案者の蒋エンも計画中に死んじゃうしな

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 19:46:35 ID:9kVRL+mg0
>>472
>外交権はあくまで君主
そうだったね。ただ、演義と正史ごっちゃにしてると思うけど、関羽の娘と
孫権の息子との縁談の時とか、呉領の備蓄兵糧強制徴収した後とか、
馬良が関羽の傍らにいたら、もう少しましな対応ができなかったかな、と
ちょっと思ったもんで

>荊州失陥に巻き込まれず生き残った人々
そっか。生き残ったから陳寿に記録に残してもらえたわけで、実際は関
羽の側近にも馬良クラスはいたのかもね。いないと考えるほうが不自然か

>心理戦の領域
だよねー。やっぱホウ統先生が生きてたらなあ。汚れた仕事は鳳雛なら
適任だったと思う

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 22:35:42 ID:o/L9DdrR0
まあ、関羽を抑えきれるなら馬良でもいいんだろうけど、諸葛亮より年下で
まだ33歳くらいだったかな?
荊州残留組では呉の太常にまで出世する潘濬という大物がいるんだよね
州の事務責任者?で、当時四十越えてるから若造でもない。
でも軍部のやることは抑えられなかったんだろうなあ

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 23:25:23 ID:RzCMLa6L0
リョ立ってのもいたなあ。
諸葛亮時代には失脚したけど。

ま、孔明ちゃんは人材活用があれなので仕方ない。

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 16:32:43 ID:/MDJyUIE0
どう考えても劉備の親族以外に関羽以上の適任者はいません
よって俺は劉徳然を推すね

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 19:11:39 ID:OYt8DQ+50
刑州生まれで軍部からも舐められないやり手か。
諸葛亮ならなんとかなるかなあ。
けど諸葛亮が指揮しだしたのは南攻からだしねえ。

関羽自体は別に問題ない、
呂蒙伝によると、関羽は内政も上手くやっていたようだし、
水軍の心得もあった。なぜか城攻めの心得もあったしな。
なんか謎の多い男だ。

リョ立あたりは、統治は分かってない。と批判していたが、
彼は超一流クラスだし、彼も刑州で補佐させればよい。
問題なのは、ほかの劉備の武将達や、刑州の名士層との関係、
あと呉との関係
刑州で名があり、呉にも知己がいたホウ統を失ったのが痛いな。

関羽に足りない面を補佐させる人材を工面するのがベストではなかろうか。
実際関羽以外の人間に刑州を任せても、呉も魏も侮ってむしろ攻めてくるだろう。
諸国に名が響いた名将はあとは張飛くらいだが、
彼は兵士に厳しすぎる。一州を任せるのはちょっと怖い。

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 21:02:09 ID:KrW7+1BQ0
どうも「刑州」と書かれると、邢州だと思ってしまう。荊州としてくれんかね。

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 23:31:11 ID:h5ehMPhr0
同意

483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 00:19:35 ID:rCdX9/+20
軍部に、というよりも関羽にというべきだと思う。張飛もそうだが、かなり人物に
対して好悪の感情がはっきりと表れる人だったようだし。

>>480
荊州の内政は、それこそ潘濬の手腕じゃないの?関羽の統率に関しては自己を恃み
過ぎて兵の損害が大きいという批判もあったし、単純に問題なしともいえないかと。

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 02:07:56 ID:cxdOi3mG0
そもそも関羽の北上が関羽(及び軍部)の独断みたいな流れに違和感があるんだけど、
関羽の出兵に前後して劉備から軍事の専断権を与えられてるって事は
事後か事前かは分からんけど承諾を与えられての出兵と捉えれるし、
劉封が上庸まで進出してることや、劉備側に関羽の出兵に難色を示してる記述が無い事を
合わせて考えれば、関羽の出兵は全体の作戦と連動した出兵である可能性のほうが高いと思う。

また関羽に舐められない人材を〜って意見があるけど、関羽は誰かを蔑ろにして意見を無視したり
した事は無いし、荊州問題の真の問題は劉備と孫権の交渉の問題(ひいては劉備の態度)
なので関羽の側にそういう人材を置いても意味が無い。
あえて置くならば関羽と相性が良く、劉備に対して忠誠心が篤い人材が一番求められると思う。

>>483
政治に関して潘濬の手柄と断じるのはどうかと、あくまで事務仕事に従事してただけだし
全体の政治を司ってたのはやはり関羽ではないかと思うが。
またその関羽批判は廖立の蜀首脳部への中傷が混じってるし、鵜呑みするべきではないかと。

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 19:31:55 ID:H/gH5rHP0
>そもそも関羽の北上が関羽(及び軍部)の独断みたいな流れに
北上自体は、成都の承認または追認を受けていたと思う。
根拠は無いけど時間経過的に。
そのうえで呂蒙にしてやられたのだろう。

で、督荊州で仮節だから、関羽が持っていたのは軍事の全権だけだろう。
荊州刺史は多分依然として劉備。その代行を任せられたのが潘濬
(だと思う。何分潘濬の正式な職名が解らないのでなんとも)。

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:08:58 ID:uWjeGP+O0
>>484
つっても南部を奪い取ったのは、劉備なわけで、
孫権じゃないし、
それをよこせってのもかなり無茶な話だと思うけどなあ。
三国干渉みたいなもんだよ、これ。

あと出兵は、指示でも承認、でもなく追認ないし、黙認だと思われ。
独断専行でも功績あげれば、なかったことになるのは世の常。
関羽の独断専行だったけど、当初予想以上に上手くいったため、
不問に付したんでしょう。

なんらかの指示、または承認があれば、成都からなんらかの動きがあり、
それが残っているはずだが、それがない。
ただ撤退命令などもないから、黙認ではないかと。

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:27:36 ID:H/gH5rHP0
ああ、黙認と言うべきかな。成都は確かに沈黙している(記録が無い)わけだし。

荊州領有問題。
該当箇所が見つからないので正確ことが解らないけど、
南郡(江陵)を奪い取ったのは周瑜であって、
それを劉備に貸与していた、というのは間違いない。
でも劉備は他はともかく南郡は譲れない。
それを睨んでの駆け引きだったと思った。確か。

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 20:29:58 ID:H/gH5rHP0
「南部」と「南郡」を混同はしてないからね、念のためw

489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 21:04:55 ID:kOhgUkAH0
もはや、湖南とかいったほうが意味通じそうだな。長沙とかのあたりのことは。

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:15:54 ID:oqej0Kky0
けど、コウカあたりは、孫権に譲ってなかったっけ?

491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:30:20 ID:PB5z6IiX0
荊州の帰属権問題は、

州人の支持 ◎劉備 ×孫権
軍事力 ×劉備 ○孫権
官位(荊州牧) ◎劉備 ×孫権
仁義(貸し借り) △劉備 ◎孫権

というように、どっちの側にも一応の正当性と負い目の両方があったのがこじれた理由
あれはどっちが正しいとか言っていても仕方が無い
あと、曹操がびびって荊州方面を捨ててたからタイマンになったというのもあるな

揚州から攻める→曹操に講和を強制する→曹操の目が荊州に向く→荊州のパワーバランスが崩れる→孫権が漁夫の利を得る
と、完璧な戦略を組んで成功させた孫権たちが偉い

492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:26:41 ID:nJzyvB1E0
>>490
江夏は、赤壁前に曹操が取った直後から一貫して文聘が固守。
江陵で曹仁と周瑜がやりあい
呂蒙が荊州南部を刈り取ったあと劉備と睨み合って講和し
関羽が樊城を脅かし
呂蒙が再び奇襲して今度は南郡を奪い関羽を生け捕りにし
劉備が報復に来寇して夷陵で陸遜と対陣し
曹丕の死後に孫権自身が5万を率いて包囲したあいだ、
ずっと固守。
長江・漢水の北岸を守り通した。
凄いぜ。

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:45:59 ID:nJzyvB1E0
あ、そっか、ごめん。
南岸にも孫権は江夏太守置いてたんだよね。
その近辺のことは解らないな。
荊州から曹操軍を駆逐した主戦力は孫権でいいはずだけど。
夷陵まで手を伸ばしてるし。

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:05:36 ID:oqej0Kky0
>荊州から曹操軍を駆逐した主戦力は孫権でいいはずだけど。

これは疑問が残る。
初期において主力と対峙していたのは間違いないが、
駆逐したってのは正しくなかろう。実際ほとんど駆逐されてないんだから。
曹操軍は以前健在。防衛線を下げたとするべきだろう、
また南部四郡は以前として、曹操軍の支配下。

ま、ここで消耗戦していたから、劉備が姑息に南部の四郡を占領してしまったわけなんだけど。
そっちには人脈もあったし、曹操が去った後は、荊州人士がこぞって劉備に帰属したとあるから、
それまで敵対関係にあった、孫権が簡単に占領できたか疑問。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:20:25 ID:YxpaHIoL0
>>494
姑息なんじゃなくて、赤壁勝利後の荊州攻めの段階では劉備と孫権で役割分担したんじゃないかな
孫権(周瑜)の方が数に勝るんだから、江陵を攻めるのが周瑜、その他を攻めるのが劉備ってだけじゃないのかと

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 20:22:46 ID:DlGG6wnL0
蜀アンチ自重。暴れすぎだろ。

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 00:15:03 ID:bUkB7xpj0
>>494
南郡を守るつもりだったが守れなかった。
敵に防衛線を下げることを強いることを駆逐(追い払う)と言うんだと思うがw

で、読み直したら、武帝紀によると、劉備の江南平定は208年の出来事に含まれている。
信じるならば、
・曹仁、周瑜・劉備と江陵で対陣。
・劉備、劉gを荊州刺史とする。兵を派遣し長沙・零陵・武陵・桂陽を平定。
・曹仁江陵放棄、周瑜が南郡太守に
・劉g死去。劉備が群臣に推されて荊州牧。孫権を推挙して車騎将軍に。
・孫権、段々と劉備に警戒を抱く
・劉備、呉へ赴く。孫夫人を娶り、荊州の貸与(長沙・零陵・桂陽)をまとめる。

…と、言うことは、趙雲らの江南平定は孫劉同盟の中で決定された分担であって、
その上で本来の帰属ラインが引かれ、さらに貸与が行われたことになる。
南郡が本来どちらに帰属するのか明記された箇所はちょっと見つからなかった
(程普伝のニュアンスからすると呉か?)

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 06:09:43 ID:aZllTPqM0
江陵からの駆逐
荊州からの駆逐

この意味の違いは分かるよなw

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 07:11:31 ID:2KWhLzUA0
後代の州県制においては、荊州は江陵のことを指すのだが、この頃はどうなってんです?

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:00:13 ID:AcXWN+Fp0
後漢では宛のあたりが荊州の州治。
劉表の割拠によってジョウハンの辺りが州治になった。
江陵に移ったのは大分後だろう。
南北朝ではジョウハンは別の呼ばれ方で異民族の占領で失陥した州の名で呼ばれてたと思う。
そういうのを僑州と言う。多分ヨウ州あたりだったと思う。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:11:07 ID:AcXWN+Fp0
>>498
南北の国力差戦力差を考えれば魏が一度占領した州の南半を丸々失うのは相当深刻な事態だと思うが。
曹操軍が健在なら防衛線を下げる必要もないし、曹仁や文聘の活躍も不要のはず。
だから↓の部分は全部違うように思う。

>初期において主力と対峙していたのは間違いないが、
>駆逐したってのは正しくなかろう。実際ほとんど駆逐されてないんだから。
>曹操軍は以前健在。防衛線を下げたとするべきだろう、

実際は主力と言えるほどの兵力は本来後詰にすぎない曹仁の手元にはなかったはず。
まともに行けばあっさり駆逐されてる所を思いのほか善戦して周瑜を負傷させたが
それも孫権のミスで予備兵力を合肥と徐州に使って遊軍を作ったことによる面が大きい。
勢力の大小は明らかなのに、弱小の敵に過失がありながら結局引き下がることを「駆逐された」と呼んでも問題はない。

当時の陸戦最強の指揮官である曹操が何の手も打てなかったのは、
結局、赤壁で相当な兵力を喪失していたから、と考えるのが自然。
幕僚の大半が死ぬような致命的な敗戦の前に思い切り良く逃亡したが、
赤壁で大打撃を受けたのは明らか。蜀への玄関口を孫権、劉備らに譲ったことは後年さらなる脅威を招いた。
劉備の追撃時の計略の遅さを笑うエピソードにしても、
曹操の豪気な態度で事態が大したことがないように歪曲化されるが、実は相当ヤバイ。
このようなケースは呂布がエン州の大半を風のように攫った時もあったな。
「俺が奴の立場なら〜して〜して俺を殺してる。それをしない奴は俺に劣る間抜けだ。大したことねーぜw」みたいな。
勿論負け惜しみというやつだ。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 09:32:59 ID:O2NsPE040
おみゃらースレタイ無視は、もうやめろw
上の方のがまだマシだぞ?

つうか、荊州問題で、新しいスレ立てろやw

このスレタイでif語ると叩かれるって、馬鹿らしいよなぁw

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 10:47:03 ID:bUkB7xpj0
と言われても、劉備の手持ちで生死を問わずとも、
主将は関羽一択だもんなあ。
「関羽以外を選んでもっと悪いことになりました」みたいな
IF話はしたくないぞw
話題逸れるごとにスレ立ててもうざがられるだけだし。
でも後漢末・三国時代荊州争奪総合スレなら結構需要あるか?
時代を限定しないほうがいいかもしれない。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 11:16:42 ID:AcXWN+Fp0
入蜀が関羽&孔明だったらどうよ。

505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 11:23:17 ID:gnT/PzKCO
>>504
大義名分がなくなる

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 13:58:00 ID:kuf/kOe60
>>503
>「関羽以外を選んでもっと悪いことになりました」みたいな
IF話はしたくないぞw

結論はそれしかないとおもうなあ

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 14:07:29 ID:AcXWN+Fp0
ぼくのかんがえた荊州董督スレ

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 17:20:08 ID:2KWhLzUA0
>>500
ありがと。
こうなってくると、スレタイどおりの展開より、今の話の流れのほうが断然興味深い。
兵家必争の地を熱く語ってもらっても構わないひとりです。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 19:25:16 ID:O2NsPE040
スレタイから離れれば、嫌な思いをする人間だって居るんだぜ?

だから、後漢末・三国時代荊州争奪総合スレでも立てろ。

大義名分は我(スレタイ)に有りってねw

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 20:07:03 ID:qSSO+nxh0
まともな考察で盛り上がってれば多少逸脱してても
見てて面白いけどね

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 21:08:23 ID:Z8NMlH7D0
>>509
東晋の西府軍団まで入れてくれ

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 22:46:27 ID:l0eOrD5Z0
立てるなら、中国全史(この板で扱う範囲で)の荊州争奪スレがいいんじゃないかな
人口的に三国に話が集中するのは目に見えているけど、面白い逸話や
互いの時代で参考になる話はいろいろあるはずだ

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 22:46:58 ID:l0eOrD5Z0
あ、当然、楚も込みで

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 01:00:48 ID:inh/JiFi0
荊州の地政学的重要性については、ちくま三国志(文庫じゃなくて世界文学全集)の
巻末のコラムで佐伯富センセイが論じている
短い文章の中に漢から明清までの文献を博引旁証して読み応えがあった

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 04:11:18 ID:pmlOuA2I0
age

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 22:44:19 ID:M31CGmRr0
http://www.girlscity.jp/home/lkyy/upload/0673.jpg

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/11(火) 18:29:10 ID:XHqN6HWI0
 

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 13:42:32 ID:F8KPwaDDO
参謀がくそ

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 16:59:28 ID:3Yl3TXDy0
蜀     荊州
劉備   関羽
張飛   趙雲
馬超   黄忠
魏延   カクシュン   
呉懿   呉班
馬岱   費観
孔明   孫乾
李厳   伊籍
黄権   王平
馬良   関平
麋竺   リョウ化
簡雍   蒋エン

・趙雲を割くのは痛いが、長年関羽ともうまくやっていたんだ
ろうから、公安に駐屯してもらって呉に固く備えてもらう。
・他に、延命したとして、黄忠に故郷に錦を飾ってもらいつつ、
ご老体だから、武将の育成でも担当してもらう。
・同様にカクシュン・伊籍らジモティに守備や民政を統括させ、手堅
そうな呉班・費観・蒋エンなんかに補佐させる
・その一方で、関羽の気質をよく知る孫乾に関羽を直接補佐
させる。

こんな感じで蜀に3、荊州に1くらいの割合で、武将を荊州に
も回してあげたかった。


520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 17:27:32 ID:Muj5FmjdO
だからゲーム的発想はやめろと

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 17:45:58 ID:Qn9SN9s10
趙雲は孔明にとって大のお気に入りだから絶対に手放さないよ

522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 19:15:49 ID:oi8LwcgBO
そんな記述見た事無い

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:52:38 ID:MspVHVyW0
孔明のお気には魏延さんですよ!

まあともかく。
主君と方面司令の戦力比3:1ってありえないんじゃないかなー

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 22:05:38 ID:8lW0TAZR0
>>519
わろた

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 00:15:00 ID:migpVfbW0
>>519
これは酷いwwwwwwwwwwwwwwwww
歴史ゲーム板に帰れ

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 21:01:41 ID:LBYNdMnnO
シャキィィィィイイン☆
三.∧_∧  ______
三( `・ω・) /巡回中/
三(_⊃┳O / ̄ ̄ ̄
三◎ゞ=◎

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 01:42:30 ID:y1MWpuyj0
放置気味なんで新しい議題を提案したい。

「もし関羽が徐晃から漢水北岸から撃退されたあとに、呉の侵攻が無かったらどうなっていたか」


・呂常の襄陽は関羽軍により包囲され続けているが、関羽軍再編成中により徐晃軍到着前の樊城ほど危機的な状況ではない
・関羽軍は徐晃との一戦で打撃を受けたが、物理的な軍機能はほぼ健在である
・関羽軍は漢水の制水権を依然握っている
・士仁と麋芳は江陵公安に居るままで、危機が無い状態でもないので自ら進んで呉に降伏しない

・呉は荊州侵攻の意図はあったが、呂蒙が史実より早く死去したために、計画→準備→実行の準備段階で頓挫した
・陸遜も対蜀侵攻派だが、当面の間は引継ぎ手続きで身動きがとれない(周瑜死後の呉のような形になる)


・曹操本軍は摩陂に駐屯したまま
・徐晃軍は樊城に入り、曹仁軍と合流した
・夏侯惇軍は寿春〜?〜許〜宛×〜摩陂という「既に関羽は撤退したよついでに魏王に会おうルート」を取らずに
 寿春〜汝南(江夏北部)〜新野〜樊城という「本来の最速ルート」を取った
・そのほか済南方面(←正確じゃないかも)から召集された軍も史実通り集結中であり、史実通り夏侯惇軍より先に到着する
・曹操の寿命は史実通り220年正月までであり、関羽撤退or死亡確定まで洛陽に戻れない
・曹仁徐晃軍は関羽が撤退しないために、趙儼が「追撃を引きとどめた」という史実通りの展開ではない


さあ、どうなる・・・?

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:01:16 ID:WQBOin640
>>527
呉の侵攻は徐晃戦前なので「関羽が撃退された後に呉の侵攻がなかったら」なんて仮定は変だろ

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:21:47 ID:y1MWpuyj0
>>528

俺も思ったけど、呉の侵攻という事は関羽が漢水北岸にいる間は影響してない。
せいぜい怪しげな「呉が江陵に侵攻したぞ!」という矢を打ち込めないだけ。
徐晃は呉が侵攻したから撃退できたという話は無いし、関羽も呉が侵攻したから北岸から撤退したという話もない
趙儼伝に明確に徐晃戦の後に関羽は撤退したとあるから、仮定に影響は無いと思う

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:25:07 ID:y1MWpuyj0
ああ、書いた後に気が付いた。

「もし関羽が徐晃から漢水北岸から撃退されたあとに、呉の侵攻が無かったらどうなっていたか」

という命題について語っているのね。

「呉の侵攻が無かったとしたら徐晃戦の後の関羽勢力と魏呉それぞれのIFはどうなっていたか」
と言いたかったんだから、突っ込まんでくれ。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:26:32 ID:ZLd7WZzQ0
孔明「法正がいればなぁぁ・・・」

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:26:42 ID:abF/TqQZ0
>>527
曹操の中軍・夏侯惇の対呉軍が迫っている以上、早急に樊を落とせなければ関羽は退くしかない。
この時期に戦略的に蜀優位が生まれるとしたら、関羽が襄樊に立て篭もり、
曹夏侯の主力を引き付ける状況が完成しないといけない。
魏が夏侯惇まで動員しているのは、徐晃の救援が間に合わない可能性を考えたからだろう。
荊州長江流域から中原へ攻め上がる場合、漢水沿いに左右に山地が迫る江陵-襄樊ルートか、
江夏を抜いて山地の東を回り襄樊の裏に出るルートの二本しかなく、
逆に襄樊を抜ければ南陽郡の台地を経て中原の平野部に一気に雪崩れ込める。
襄樊は対荊州の最後の要衝であって、関羽単独に許都侵攻の力はないにしてもここを落とされる
心理的ダメージは大きい。これを抑えるために曹操は全力を傾注する必要があった。
関羽が襄樊に長期立て篭もることが出来れば、蜀本国からの増援、漢中から出て雍涼切り離し、
呉による合肥侵攻の三本が同時に展開する素地が生まれる。

というわけで、呉の侵攻がなれけば、荊州軍は多少消耗しただろうけど、元のまま。
曹操も逆侵攻するほどの用意はないだろう。
劉備は荊益の二郡を保ったまま次の機会を待つことになったと思う。


533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:48:35 ID:y1MWpuyj0
>>532

早速ノッてくれてサンクス。

まず襄樊に長期立て篭もるということだけど、樊城は本来の曹仁軍に加えて徐晃軍も入ってるので陥落させるのは限りなく難しい。
襄陽の包囲だけど、関羽は樊城を先に落とせば襄陽は自然と孤立して落ちると考えただろうから、殆ど手を付けてないっぽい。
つまり無傷の襄陽を一から攻撃して落とすのは難しいんじゃなかろうかと考える。

となると、関羽の取れる手段は曹仁徐晃を城から誘き寄せて野戦で撃ち破るか、
江陵に一度撤退して対呉の備えの兵&孟達の4000の兵を動員して再び挑むか、
劉備からの指令待ちで江陵に留まって
>曹操も逆侵攻するほどの用意はないだろう。
>劉備は荊益の二郡を保ったまま次の機会を待つことになったと思う。
この三択だと思う。

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 02:50:32 ID:m4F0Gqs80
すぐに援軍が来れないし、すでに篭城戦でボロボロの城に長期間も立て篭もるなんて
不可能だろ。

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:03:38 ID:y1MWpuyj0
>>534
12月には夏侯惇や張遼が摩陂に到着してるから、関羽が再び樊城を攻めたとしても1ヶ月保てばいいだけだよ。
温恢伝にエン州刺史斐潜と、予州刺史呂貢の軍勢がが夏侯惇張遼より先に到着したとあるから、援軍自体はもっと早いかも。

さらに関羽の軍勢と、徐晃軍を併せた曹仁軍だと、曹仁軍のほうが規模が大きい可能性が高い。
んだから関羽が再び来たとしても、ボロボロになった城に立て篭もらずに打って出ると思うなぁ。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:11:14 ID:abF/TqQZ0
>>534
うん、そこがネックだと俺も思う。
援軍自体は、上庸から数週間で到着すると思うけど。
だからせめて、漢中からの劉備本隊の北上がどれだけ早められるかが問題になるけれど、
最近どっかのスレで出てた「漢中は曹操が住民根こそぎ持ってったから兵站能力無いよ」説が
問題なんだよなあ

537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:16:28 ID:WQBOin640
>>529
影響しとるぞ
きっちり正史に「城が落ちて関羽軍の士気がメッチャ下がった」という趣旨のことが書いてある

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:18:30 ID:y1MWpuyj0
>>534

あああ、これは「関羽が樊城を奪って立て篭もったとして」の話なのかあああああああ
アンカーないから「関羽が再び攻めてきて徐晃と曹仁がまた樊城に立て篭もった」話かと思った('A`

>>536
【劉備】 漢中争奪戦 【曹操】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1168319445/
このスレだね

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:21:17 ID:m4F0Gqs80
>>535
キチンと書かなかった俺が悪かったけど、関羽が城を取って立て篭もった場合だよ。
>>536
どちらにしても、川を渡らなければ兵が遅れないし逃げられないんだよな。
川を挟んでの退却戦なんて孫子じゃないが、死地での戦いで大損害がでるぞ。

540 :sage:2008/01/26(土) 21:28:25 ID:8QiwahHA0
閑羽以外が荊州守っていた場合。
荊州陥落しても、蜀呉の争いがひどくならなかっただけ。



541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 02:42:40 ID:Zoh5vu+j0
>>540
それはない

劉備にとって荊州は必要欠くべからざる土地

542 :成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2008/01/29(火) 08:17:52 ID:nrCvo12FO
>>121殿
ハハハハハハハヽ(≧▽≦)/ハラ痛い

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 18:25:40 ID:dxI3ej6wO
まぁ何というか、魯粛が死んだのが一番痛いんじゃないかな。
正直蜀は魯粛によって生かされていたと言っても過言ではないし、そもそも魯粛がいなければ蜀が成立する事すらなかったと思われ。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 20:08:56 ID:sJ9QJV9I0
>>543
魯粛も江陵を中心とする荊州南部は奪い返す気満々
というかそもそも呉蜀の荊州を巡る争いの絵を描いたのは魯粛

545 :成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2008/01/30(水) 07:48:07 ID:UMFJpcUDO
>>384殿
ハァハァハァハァハァヽ(≧▽≦)/

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:11:15 ID:Qqjaea6cO
アドバンス

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:15:53 ID:tbrsfEh30
どの軍だろうと餃子攻撃とかあれば一撃だ

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:35:55 ID:5uN/QOp30
なるほど、それで大順軍を倒したわけですな

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:36:51 ID:nRNbTvRN0
全軍で総力を挙げて餃子を自作し荊州問題を解決

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 23:41:19 ID:8WfYvUDI0
>>544
魯粛の戦略が良く分からんのだよな。荊州南部を取る気なら、周瑜の天下二分にそのまま
乗れば良い気もするし。それとも、戦力的に無理だと判断したから、劉備の力を利用したんだ
ろうか。
 それでも交渉で荊州を取り返そうというのは、少し甘い気がするんだよなぁ。見通しが。

551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 00:05:55 ID:Wa4quOjE0
いずれ劉備を皇帝に戴き、
強力な部下軍団を再編成、
孫権殿を大将軍にいたす

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 02:03:54 ID:qRf2aHQZ0
>>550
周瑜の死亡と、劉備の不穏な動きを前にしては、一旦退く以外の手がなかったんだと思う
益州まで一気にいけそうな将軍である周瑜が死んでは、拡大路線も修正を余儀なくされる
また荊州牧が劉備のものとなった以上は、荊州は孫権軍にとってアウェー
元劉表配下が劉備になびいている中で占領を継続するのは困難
黄祖を倒した後の江夏みたいにただ撤退するんじゃなく、劉備に恩を売る形で撤退したのが魯粛の策略
荊州再占領は交渉を含めあらゆる方法を想定してただろうけど、やむをえない撤退であった以上、再占領の方法や時期を明確にしていなかったことを非難するのはお門違いだろう

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 11:37:36 ID:IwBaXdEX0
結局、赤壁以後の呉は戦略を周瑜一人に依存してたことが内外に知れ渡ったんだよね。

孫権が意図的にか、ただ軍事無能的にか、は議論がわかれるところだろうけど、
赤壁及び南郡攻略時に周瑜に兵を渡さずに、自分で合肥方面に出兵して足を引っ張っているにも関わらず周瑜はやっちゃった。

この時点で周瑜は真珠湾奇襲成功後の山本五十六のような絶対的な存在。
それどころか主君を超えてるかもしれない(本人にそのつもりがなくても)。

そして周瑜は劉備とイチャイチャするより(つまり魯粛の「呉は一角を保持して機を待つ機会主義」論より)、
もっと主導的になれると判断した。
それが劉備軟禁歓待の勧めだったり、劉備象徴権威の勧めだったり、関張は俺が使う論だったりした。

劉備軟禁は退けられたが、益州攻略は認められた・・・つまりイニシアチブは孫権も魯粛も周瑜にあると認めた。
が、ここで周瑜は死ぬ。

後任の魯粛は周瑜が死んだ以上、益州攻略どころか南郡の維持ですら厳しいという現実に直面する。
そして>>552になる。



554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 12:32:32 ID:tgKLYcGzO
南郡を泣く泣く手放さざるを得なかったが、呉は江夏は保持して荊州への侵入路を確保してたし、劉備に恩を売ることで名分や荊州人の感情などの面では得るものがあった筈
一部返還(再占領)もしたし、南郡を奪う戦略眼を持つ呂蒙も見出だした
魯粛の決断は勇気ある後退だったと思う
無理押しすれば劉備=荊州人との関係悪化は勿論、全面的な荊州争奪戦や曹操の介入だって招きかねなかっただろう

555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 13:44:17 ID:ng6cDw7C0
江夏は文聘が占拠してるんだが、何時、魏に落ちたんだろ?

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:17:29 ID:IwBaXdEX0
いつって・・・江夏は漢水北岸の魏江夏郡と、漢水南岸/長江東岸の呉江夏郡に分かれてるから。

漢水北岸は曹操の荊州侵攻の際に帰属してる。
漢水南岸/長江東岸は地理上、赤壁で勝たないと魏に所属しようがないからそのまま侵攻を受けていない。



ちなみに、この劉gの江夏は赤壁の前年に周瑜が攻め落としてる。
んでも、どうやら黄祖を斬って物資を押収しただけで撤退したっぽいな。



話を戻すと、この漢水南岸/長江東岸の江夏はどうも赤壁後に劉備/劉gから呉に譲渡しているっぽい。
その見返りとして江南四郡の侵攻を黙認したのかもしれんね。

215年の蜀呉の荊南紛争の和議の結果、江夏郡・長沙郡・桂揚郡は呉、南郡・武陵郡・零陵郡は蜀となってるから、
この瞬間まで江夏を含めた領土問題は「あやふや」だったのかもしれない。

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:55:46 ID:ng6cDw7C0
劉gの夏口城は漢水北岸にあると思うんだが?
黄祖を攻める時も川を渡ってからだし、筑摩の呉主伝の地図にもそう印がついてるんだが?

558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 15:04:05 ID:ng6cDw7C0
>>556
すまん。なんか勘違いしてた。
夏口は孫権に落ちてるわ。江夏と夏口がごっちゃになってた。

559 :550:2008/02/20(水) 22:40:16 ID:sdDMalqK0
>>552-554
 レスありがとう。

 荊州争奪戦から手を引いたからこそ、その間に交州を圧迫し、帰属させる余裕が出来たんかな。
これで形の上では、揚、交の二州を手にした孫権と、荊、益の二州を手にした劉備。もし魯粛が死な
なかったら、関羽の北上と同時に孫権も合肥を攻めていたんだろうか。

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:00:55 ID:qRf2aHQZ0
>>559
呂蒙が関羽倒す策を示して喜んだのが魯粛だからね
関羽が北上した時に魯粛が健在だったら、史実同様に荊州を攻めていたと思うよ
これは穿ちすぎかもしれないが、魯粛が劉備・関羽に対し協力的に見えたのは演技だったんじゃないかと思うんだよな
北上時の関羽に呉を侮る気持ちがあったとしたら、それは魯粛の低姿勢から生まれただろうから
しかしそれは全て「やむを得ず手放した南郡から劉備の軍を追い出し再占領する」ための魯粛の遠大な計略だったとしたら・・・

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:11:16 ID:mMFQkpse0
一つ前から疑問なんだけど、
『関羽が襄陽を取ることを孫権は喜ばない』だろう、というのは、
単に蜀の荊州支配が磐石になってしまうから、というだけなのかな?
不意を突いて攻撃するには理由が弱いような気がすると思うんだけどなー
その時臣従しているとはいえ、曹魏が潜在的な敵国なのは間違いないし、
劉蜀の狙いはただ中原に向けられているわけだから。
荊州の重要性と生産力、荊州領有の正統意識、魯粛の進言に従ったことを
この一点だけは孫権がずっと後悔していたこと、等を考え合わせても、
このタイミングで敵に回すのはどうしても愚策に思える。
実際劉備の大侵攻を招いたわけだから。
関羽が成功しようが失敗しようが、曹操と劉備の対立は鶏肋たる漢中攻防の
比ではないほど先鋭化するわけで、別にタイミングを合わせて合肥に侵攻しなくとも、
西にも北にも機会は幾らでも生まれたと思うんだ。
これが『関羽が失敗すれば荊州は曹操に取られるのでその前に』ならまだ判るんだけど。
孫権はともかく、主戦派の呂蒙はどう考えていたのかなあ。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:07:22 ID:pivn5cKq0
>>561
攻撃した理由は南郡の重要性だけでもいいと思うけど他にあるとすれば
蜀の荊州支配が磐石になってしまう。
関羽が失敗すれば荊州は曹操に取られる可能性もなくはない。
魏に恩を売っておきたかった。
こんなところじゃない?

機会は幾らでも生まれたというのはどうかな?
少なくともほぼ無傷で荊南を手にする機会は二度とないと思う。

呂蒙はすぐに死んじゃったから何を考えてたかはよく分からないんだよね。
周泰伝にある蜀攻めが呂蒙の考えかもしれないが…

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 01:52:50 ID:dwmwsAoR0
>>561
すまんが
>劉蜀の狙いはただ中原に向けられているわけだから。
ってのはなにか根拠があるわけ?
関羽(劉備)の言動からして、
蜀も天下2分に含みをもたせた戦略をとっているように
思えるんだが。

564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 07:49:05 ID:hTcUfbId0
>>563
夷陵後の蜀呉講和。
荊州を失ってさえ、呉と対立を継続するのを回避した。これが本来の規定ラインだろう。
関羽は単に成都との連絡が疎になっている状況での暴走だろうね。

>>562
まあ、だいたいそうなんだけど
どうもあと一つパンチがないというか、しっくりこないんだよなあ
いや、理屈に合わない、というわけじゃないんだけけどさ。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 08:15:17 ID:jEeydkHD0
関羽独断説は、その時点で反逆者・国家に対する背信行為ということでありえないんだが。
劉備追認説も上と同じ理由でありえない。

節=軍事自由権という解釈は間違い。

国家の命令系統というものを知り、関羽が忠臣という定説を信じるならば、北上作戦は指令に基づいたものとしか解釈できんよ。

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 08:41:42 ID:dwmwsAoR0
>>564
夷陵後は劉備が死んで蜀が荊州から駆逐されたあとじゃん。
TOPと情勢が変わった後の戦略をさして
その前の戦略は語れんだろ。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 11:53:31 ID:rb2/1mxtO
劉備入ショク後に、荊州の長江北岸をさっさと返還して
南蛮平定>漢中戦の流れは、
このスレでは邪道ですか?

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 12:18:13 ID:+Wm1ZwV8O
>>567
それは諸葛亮のプラン「益州と荊州から同時に攻め上がる」の放棄を意味する
天下を狙う以上は無理
あと呉は呉で「長江流域すべて」の領有を狙ってるから、荊州を返したら益州が狙われることになる
劉孫の対立は場所を変えるだけで継続するよ

569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 13:06:36 ID:rb2/1mxtO
>>568
なるほどね。
漢中からの北伐ルートのバリエーションが増えるからマイナス要素は少ないかと思ったのだが。
プランとしては、漢中制圧後、
張と馬が長安以西に侵攻、関が漢水下りでエン辺りを横からつつく。
荊州北部を黄か超で牽制できりゃ
中原を西と南から攻める格好になるんじゃないかと思ったのだが。
念のため劉備は永安駐留で。

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 14:29:36 ID:ohtvZdNRO
>>569
それだと魏は防衛ラインを集中できるから蜀は逆に苦しくなる。
歴史が証明してるしな。

呉の外交が変幻きわまりない以上、
蜀としては荊州北部を堅持しつつ二路進攻策をとる以外にない。
関羽の北上はそのための橋頭堡確保を目指した国是だろう。

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 18:01:38 ID:tldfHi3V0
>張と馬が長安以西に侵攻、関が漢水下りでエン辺りを横からつつく。

新参の馬超と張飛の組み合わせはまずい。
諸葛亮をつけるか黄忠にしろ。
張飛は劉備にくっつけておいたほうがいい。

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 18:11:01 ID:sEO3Qvou0
張飛と馬超は史実でも普通に組んでるじゃない。
下弁で負けてるけど。
雍州の大物馬超を抑えられるのは黄忠らで不足、劉備か張飛しかいない。
もう一人の古参・関羽とは逆に名声ある士大夫を冷遇したり競争心を持ったりはしないから、
張飛は長期駐留向きではないけど侵攻作戦には向いてる。

573 :567:2008/02/21(木) 23:54:26 ID:afoy89Lf0
>568
>567案だと、蜀に後顧の憂いがなくなるし、
長江流域の全てを所有した呉に、蜀を攻め込む余裕なんか生まれるのかな
呉蜀同盟の落とし所としても、長江以北の荊州南郡だけだと思うし
そこを領有しても、守るだけが精いっぱいかと。

>570
呉の外交は魏でも手を焼くこともあるし、
変幻自在なのは、蜀に限ったことじゃないのでは?
むしろ、長江北岸は樊城には曹仁がいるし、合肥には張遼がいるしで
蜀に攻め込む隙なんぞなさそうなんだが。

魏にしても防衛ラインは、洛陽〜許昌〜汝南あたりが防衛ラインになるんだろうか。
少なくとも荊州の曹仁・徐晃あたりは孤立して敗北すると思う。


>571
諸葛亮の最大の持ち味は後方からの前線援護だし、
漢中に拠点を置くのであれば、擁・涼・荊・司隷と地理的に近いから
兵站・計略で動いてた方が良さそうな気がする。

黄忠と張飛の相性ってどうなんだろうな。
馬超と張飛は下弁での実績があるし、
馬超は涼州方面の鎮圧が主な任務になると思う。
張飛が長安攻略。まぁ一人じゃ不安だが。

>572
陽平関攻略の件があるから組ませてみました。

張飛は長安攻略で、攻略後の長安に劉備+諸葛亮+馬超が入ればいいかなぁと。
荊州北部の攻略が成功していれば、張飛+誰か
荊州長江南岸に関羽+黄忠、永安に超雲
ってな感じの配置になるんじゃないかと勝手に妄想。

長文過ぎました。ごめんなさい


574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:08:23 ID:/mWk+rCt0
>>567

侵攻方面を1つに絞るっていうのは逆転の発想で、考えとしては悪くない。

ただし、見過ごせないのは現代の領土問題と同じで、一度譲ったら解決するというのは甘い認識ということ。
これは、舐められるということもあるし、他勢力(領土内の異民族含む)からも同じ譲歩を将来にわたって要求される可能性ができるから。

もう一つの理由は荊南の税収が実に多大であるということと、兵3万を動員できる基盤があるということ。
金の面は苦しいのを飲むとしても、人口減少が著しい当時に兵3万を維持できる食料=税収=人口を手放すというのは金額に換算できないほどの価値がある。

最後は劉備政権は荊州士人がその中枢に多数いることから、
荊州を自ら手放すというのは政権維持において予想出来ない変動があるかもしれないということ。

つづく

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:24:36 ID:/mWk+rCt0
>>567氏への続き

>呉の外交は魏でも手を焼くこともあるし、
>変幻自在なのは、蜀に限ったことじゃないのでは?

正にその通りで、魏(特に曹ヒ)は随分振り回されてる。
ただし、関羽戦役直後の襄陽侵攻を見ても、その後の呉の侵攻経路を見ても、呉は防衛面での必要兵力以上の配置を荊北方面用に置けなかったのは確か。
何故かというと、本拠地に近い合肥方面でさえ一度陸に上がると芳しくない結果があるうえに、兵站構築を考えると非常に難しいから。

仮に長江全域を呉が支配しても、襄樊より北へ侵攻の意図があるのならば強力な権限を持つ司令官を置き、
多大なヒューマンリソースを割かねばならないので、荊南に置く必要がある対蜀戦力と合わせると呉の国力を超えている。
つまりは呉は襄樊へは攻める余裕が無いということで、自然と魏の兵力は合肥と長安に集約され、より蜀の長安にしろ呉の合肥にしろ魏への侵攻が難しくなる。
関羽が居ることで魏は襄樊の防衛に力を割かざるを得なかったが、呉が荊州を持つことはどちらかというと魏にとって好ましいことなんだ。


>むしろ、長江北岸は樊城には曹仁がいるし、合肥には張遼がいるしで
>蜀に攻め込む隙なんぞなさそうなんだが。

これもその通り。しかも河を上るので基本的に戦史を見ても益州→荊州の侵攻は数多くあってもその逆は無い。
ただ、問題はというと、上にも書いたように、呉が荊州を持つと魏のリソースを長安方面と合肥方面の2つに限定できるので、魏に利しているということ。
蜀は国の成り立ち上、魏を倒すことが国是であるが、呉は受動的な機会主義だから、別に合肥方面に限定されても困らないのだから、後はお察し。


576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:25:50 ID:plZTp4bK0
>>573
>長江流域の全てを所有した呉に、蜀を攻め込む余裕なんか生まれるのかな
まず、「長江流域の全て」には上流の蜀も含まれてるんだよ
だから荊州だけでは孫権の天下取りは第1段階も終わらない
そして現実に南郡を落とした後の孫権(周瑜)も南郡を落とした後の孫権(呂蒙)も蜀攻めを検討している
もちろん実際には蜀に大きな隙がないと難しいわけだけど、常にチャンスを狙う危険な隣人であることには変わりない
荊州でも益州でも同じなら、劉備側にしてみれば妥協する意味が無いよ

あと諸葛亮の最大の持ち味は前線で将を自在に指揮することだと思うが、これはスレ違いか
諸葛亮は蕭何のような能力も持った韓信

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 00:33:56 ID:/mWk+rCt0
ちなみに付け加えると、

漢中⇔長安の戦いは複数あるルートで

・魏は塞ぐだけ
・蜀は涼州に陽動などを掛けてどこか1本を抜き、他のルートの魏軍を後退させて関中で決戦して勝利

という具合で、蜀からみると非常に難しい。
これは全て兵站の困難さ、道の険しさによる。
魏は道を塞いでいれば、やがて蜀の兵糧が尽きて撤退することをしってるから攻勢に出る必要が殆どない。
仮に関羽と荊州3万を失わず、その後の劉備の大敗で失った将兵も失わなかったとしても、
その分魏は長安に兵力を集中できるので「難易度」はそれほど変化が無いと思う。

さらに蜀のハンデとして、仮に長安の奪取に成功したとしても、長安は成都からみると正に陸の孤島。
曹操の強制移住によって人口が激減した漢中からさらに先に拠点を持つということは、
益州と関羽の荊南の関係に非常に近くなると思う。

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:29:22 ID:1Euud/ixO
>>577
>さらに蜀のハンデとして、仮に長安の奪取に成功したとしても、長安は成都からみると正に陸の孤島。
>曹操の強制移住によって人口が激減した漢中からさらに先に拠点を持つということは、
>益州と関羽の荊南の関係に非常に近くなると思う。

>>570ですが、慧眼恐れ入ります。
自分の危惧した点を見事に解説して下さりありがとうございます。
孔明が西の祁山に出た理由も上記引用を危惧したためかと考えています。
つまり漢中=長安を線でなく面で繋ぐ戦略であると。
荊州失陥後に残された戦略はこれしかないんですよねぇ。
つくづく関羽北進時に劉備の後詰めがあれば…と惜しまれてなりません。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 09:38:27 ID:SylMiFuI0
>>578
あったっぽいけどな
ただ呉の奇襲があまりにも迅速で鮮やかだったからわからなくなってるけど

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 20:22:12 ID:DvctmyR70
>>579
マジすか?

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 00:44:28 ID:eqUJMYcg0
それは勿論のこと劉封孟達じゃないですよね・・・・?
だとしたら初耳なんで詳しくお願いします!!!!

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 02:09:18 ID:YC4uWYNO0
史実では蜀制圧後の215年呂蒙が荊南部を制圧など小競り合いがあった頃一度荊州に軍を率いてきていたはず
関羽包囲戦のころに援軍があったかどうかはしらないが決して絶対不可能というわけでもないのでは

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 17:41:06 ID:JArYUPBY0
不可能ではないのは当たり前だが、一般的には関羽の樊城攻囲時の
蜀本国の動向は不透明。だから>>578-581のレスがあるわけだ。
劉封・孟達の援軍拒否を劉備が後で知るなど、
どうも連絡が上手く行っていない感がある。
後詰の動向が判る記述があるなら俺も知りたいな。

584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 18:10:15 ID:JArYUPBY0
219年
 正月 曹仁が宛を攻略し反乱者項音を斬る。
 ?月 夏侯淵が陽平で戦死。
 三月 曹操、斜谷を抜けて陽平にて劉備と交戦。
 五月 曹操、長安へ帰還。
   夏 劉封、孟達、李厳らが上庸へ派遣。
 七月 于禁を樊城への救援へ派遣する。
 八月 于禁の軍が洪水のため水没。徐晃が増援で派遣される。
   秋 劉備が漢中王となる。
 十月 曹操の軍が(西から)洛陽へ帰還。
     孫権が関羽征伐の意思を上表。
     曹操の軍は南下する(が、到着前に徐晃が関羽を破る)。
閏十月 呂蒙が公安を奇襲、陥落させる。
十二月 関羽が章郷で捕らえられ、のちに斬首される。
220年
 正月 曹操、洛陽へ到着。同月、死去。曹丕が後を襲う。

漢中と襄樊攻撃の連携は悪くなくて、実際曹操は危うく間に合わないところだった。
(それでも、于禁の水没が無ければ十分渡り合えただろうし、
徐晃のクリティカルが光るが)

むしろ、曹操が漢中-長安-洛陽を必死こいて移動している間に
劉備が漢中王になって細々儀礼をやってたことが解せないんだよなあ。

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 19:23:31 ID:JArYUPBY0
思い直した。
やっぱり劉封と孟達だわ。
タイミングと地理関係から見ても、上庸攻略は荊州との連絡開通のためのものだ。
漢中と襄陽は漢水で直結しているわけだから、劉備の本軍が漢中にいる以上、
上庸を通す以外に無い。襄陽と漢中が保持できれば北進に当たって
益荊の連携はがらりと変わる。
援軍拒否を劉備が後で知ったというのは勘違い(明記されてなかった)が、
劉封らが関羽の要請を断ったので漢中への報告を怠った、というのは有り得るかも
しれないな。ちょっと二人に酷な推量だが。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 02:13:25 ID:IDNf6F+gO
要するに後詰めの事実はなかったね。
詰めるためのルート開拓はあったみたいだが
実際に有力部隊が展開したとは言えなさそうだ。

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 03:50:38 ID:xbv+XBpf0
本格的な侵攻じゃなくて、樊−上庸を確保して来る北伐の橋頭堡とする計画か

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 04:41:29 ID:unjpetFY0
漢中を張飛にまかせて、荊州は関羽と魏延は?
魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 07:43:47 ID:oXuOGCuYO
多少情状酌量の余地があるとはいえ、
死ぬまで脇が甘かった張飛が大守任される事はないと思う
(いくら徐州時代から成長したと言っても)
それにギ延を後方でお留守番させる程、人材が余ってるわけでもないしなぁ

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 10:05:04 ID:N72FMJ1h0
>魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。
何を根拠に?

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 11:36:18 ID:8vrXC9SS0
というか、降伏が現実のものになるまでは
荊州の後詰に麋芳ってのは超鉄板人事なんだけどな。
劉備の姻戚で徐州からの古参。継続的には趙雲より長い。
それを差し置いて他の誰かってのはちょっと考えられないな。

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:34:39 ID:12Q2EYNH0
>魏延なら、呉が攻めてきても、粘ると思う。

所詮土着豪族の出身。呉に降伏しても地位は安泰。

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:39:32 ID:12Q2EYNH0
>>584
のっとりで国を得た悲しさだな。
漢中戦の前、曹操来襲を聞いた蜀の土民は浮き足立って自壊しそうになっている。
劉備は勝利の興奮が冷めぬ内に大々的に儀式をやる必要があった。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:51:59 ID:swOgciuB0
>>593
なるほど。劉備にとっては軍事のみならず政治的にも
「待望の漢中奪取」だったわけか。

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 20:59:03 ID:12Q2EYNH0
結局正当性の問題だろ。
曹操も孫権も、自らの正当性を認めさせるのに四苦八苦しているわけで。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 22:11:28 ID:7UPfnJpn0
>>583
昔どっかのスレでニセクロが後詰というか荊州辺りの組織を組み直してバックアップ体制をしてたんじゃないかという考察してたのはチラ見したんだが
具体的な内容はド忘れしちまったな

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 22:17:33 ID:7UPfnJpn0
専ブラに感謝だな
ログ漁りしてたら出てきた

965 名前: 945 2006/03/18(土) 21:40:16

停滞するスレに再び殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry

>>964
自分は南郷太守の郭睦は劉備が任命した太守だと解釈しています。
南郷太守の郭睦は房陵太守のトウ輔と共に陸遜の派遣した謝旌に破られてますが
それは 呉書陸遜伝で陸遜が江陵を押さえ宣都入りした後のこととされています
南郷郡、房陵郡の地理関係から見て、郭睦やトウ輔は関羽が送り込んだのではなく
劉備の任命によって成都(または益州・荊州間のどこか)から派遣されて任地に
赴く途中で陸遜らの攻撃を受けてとっつかまったと推察されます。
傍証として、蜀書劉封伝中に注としてあげられている孟達が劉備の下を辞去して
魏に寝返ったときの手紙をあげておきます
「(略)ここに臣は事の原因を求め、自ら房陵・上庸をお返しし云々」とあり、
孟達の中で、劉備の下を辞去する時点で房陵と上庸が孟達の治下にあったことが
窺われます。
既に関羽が敗れる時に房陵太守としてトウ輔の名が陸遜伝に載せられているので
もっとも整合的な説明は、トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定であった。
しかし、任地に到着する前に陸遜らの攻撃を受けた。と推察されます。

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 23:42:57 ID:0Dr+fCxM0
というか、言うまでもなく関羽に太守の任命権なぞないでしょw
「何処から来たか?」といえば、多分益州からだろうね。劉封もそうだし。

これは孟達の北上作戦が劉備の指令であるということの証拠。
とどのつまりは関羽の北上作戦が劉備の指令であるということ。

孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。
4000+降伏した軍で援軍行けっていうほうが無理。

劉備も益州攻めのときは
自前の兵じゃないのは張魯攻めを引き伸ばしに引き伸ばして懐柔する時間つくったり、
降伏してきた兵は家族人質取ったり、その辺の事情知ってるくせにな〜w

599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 00:54:20 ID:k6AVlr4c0
つまり概観すると、漢中を取って樊を攻囲したところで劉備は攻勢限界線に達していたって事か。
ぎりぎり一杯の横腹を奇襲されてはどうしようもないよな。

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 02:27:55 ID:Dz2CjaY+0
>孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。

それだけ有能なら劉封なんかを送り込む必要ないだろ。
劉封は何しにいったんだ?

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:24:56 ID:k6AVlr4c0
孟達は比較新参。
劉封は養子。
つまり重石役だね。
孟達一人に全権を任せるほど小さな仕事ではなかったということだろう。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:32:06 ID:Dz2CjaY+0
>むしろ、曹操が漢中-長安-洛陽を必死こいて移動している間に
>劉備が漢中王になって細々儀礼をやってたことが解せないんだよなあ。

曹操だって似たようなことをやってる。
五斗米道の張魯を下しあと一歩で蜀が取れるという段階でも、
あえて引き返して王権の確立、新王朝樹立の準備に勤しむ。
孫策孫権なんかはずーっとそれをやりつづけてチャンスを逃しまくっている。

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:33:43 ID:Dz2CjaY+0
>>601
ぶっちゃけ孟達だけじゃ不安だと?


604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 03:42:20 ID:k6AVlr4c0
劉封伝にも孟達一人に任せるのは不安だったと書いてあるけど、
孟達じゃなくてもよくあること。
その上庸を魏が攻撃した時の面子は、
征南将軍夏侯尚の下に右将軍徐晃・新城太守孟達。
有能な武官がいれば全権委任して問題無い、という時代じゃないからね。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 11:01:21 ID:PIfU8Mtk0
上庸の呂兄弟の扱い方を見ても解るとおり、あの辺は土地の隔離性から土着豪族の力が凄いんでしょ。
太守が居ても豪族を手なずけないと面ではなく、点の支配になってしまうように。

孟達(もしくは軍権を持っている将軍)が豪族とくっついて半独立状態になり、
魏と蜀の間で振り子のようにどっち付かずになることを劉備は恐れた。
だから劉封を派遣したが、これがヤブヘビでかえって刺激してしまったということかな。

いずれにしろ孟達からしたら部将としたら最大級の功を挙げてるのに、二世のボンボンが上から降ってきて、
間接的に「おまえには全権は与えられん」と言われてるも同然なのに、
軍楽隊を没収されたり無茶苦茶な援軍要請を受けて蹴ったら敵視されたりで不幸すぎる。


606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:23:44 ID:eIq9OQDx0
関羽を支援しようとしていたなら何で劉備は成都に戻ったんだろ?
漢水下りでいけばすぐなのに…
郭睦、トウ輔の派遣もタイミングが遅い(劉備が成都に戻った後?)ように見えるし
兵力も呉の3000にあっさり破れるくらいだからそんなに大したことはなさそう。

漢中軍の疲弊はあるんだろうけどそれならもっと早い時期に成都から援軍を出せなかったものか。
侯音反乱、上庸攻略、関羽北上、荊州再編の動きが全て一歩違いくらいで噛み合ってないように感じる。

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:44:14 ID:CtCdWv6S0
>>606
侯音の一歩があと1年遅ければというのはある
上庸攻略と北上のタイミングはバッチリ
荊州再編も問題なかったが、何より呉が早過ぎた
あのタイミングでの同盟打ち切りが素晴らし過ぎる

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:48:03 ID:k6AVlr4c0
成都から出せるとは思えないな。
有力な将は諸葛亮くらいだろうし、この時兵站担当だから動けない。
兵力も漢中に注ぎ込んでるだろう。
つまりその辺が兵力的限界だったわけだろう。

ケ輔の派遣のタイミングが遅いのかは判らん。>>597の想像よりも、
単に陸遜は、関羽の駆逐後に荊州西部全域を制圧していたと見るべきじゃないのかな。
つまりこの郭睦やケ輔の駆逐は、時期的に孟達の寝返りの後、
長期に渡る荊州制圧作戦の過程のものとなる。
後に呉は、一時襄陽も落としているわけだから。

劉備が成都に帰ったのはなぜか、確かにわからない。
本当に関羽の敗北の後かも判らないけど。

609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:54:17 ID:PIfU8Mtk0
南鄭に軍を移動させる艦船があったのか、かなり微妙。
劉封も軍規模の兵を率いずに上庸にはいったようだし。

張魯の国の性格からして無かったとおもうね。
仮に艦船があったとしても漢中スレに詳しくあるように、漢中は出兵どころじゃない状態だっただろうから無理だね。

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:56:30 ID:k6AVlr4c0
>>607
いや、思ったんだが、
劉備と孫権は一応和睦してはいたが、友好状態とは決して言えなかったと思うんだ。
最初に呂蒙が南荊を取ったとき、劉備が公安まですっ飛んできたので分割協定を結んだけど、
隙あればもう一度取る、というつもりは蜀にも魏にも明白だったんだろう。
だから関羽は最初、南郡に防備を残したし、
>>561の疑問、蒋済の「関羽が思いを遂げることを孫権は望まない」という言葉が曹操への説得力になって
共闘が成立した。
呂蒙の奇襲は、軍事的にはこの上ない(読めるかよあんなの)が、
政治的には奇襲ではなかったと思う。




611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 13:59:39 ID:CtCdWv6S0
>>605
蒋エンの北伐?でも話題になってるけど漢中〜上庸のルートは
漢中からの一通気味で中々遡行出来ないから荊北〜荊南〜益州のルートが確立してないと退路がなくなっちゃう
だから、関羽が敗戦した時点で孟達は進退窮まってる状態で、お目付けの有無とは無関係に降伏以外の道がないと思われる
逆言うと、上庸取りが先に行われたという事は関羽の北上が独断ではない事の傍証となる筈

関羽からしてみれば「お前を助けに来てやったんだから支援くらいはしろ」って援軍欲しいと思うし
孟達からしてみれば「お前らが俺を助ける役目だろ!!!」って絶叫したいと思うのも自然
この辺はお互い様なところがあってどっちが悪いのかとも言えないが

>>607に書き忘れたが、郭睦、トウ輔は恐らく孟達が4000人くらいで抑えてる豪族の抑え役だろうから
数もそれに近いか、統治用の部隊として少ない程度だったんだろう
というか多分劉備は孟達の軍事能力に惚れこんでて、孟達を動けるようにして関羽のサポートに回す気だったんだと俺は思う
ここまで書いて気付いたのだが、関羽の援軍催促はこれらの再編を見つつ

       ☆ チン        ハラヘッタ〜
                     ハラヘッタ〜
 ☆ チン  〃 ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ヽ ___\(\・∀・)< ちょっとーはやくしてくれる?
      \_/⊂ ⊂▼)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | 漢前将軍専用  .|/

こんな感じだったのかもしれない

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 14:33:01 ID:eIq9OQDx0
>>607
北上と侯音反乱が同時期でそれ以前に上庸統治が上手くいってればと思ったけど
そんなに都合よくはいかないよね。

>>608
> 単に陸遜は、関羽の駆逐後に荊州西部全域を制圧していた
なるほど。
郭睦、トウ輔は巴蜀から派遣されたのではなく
孟達らに追われて南下していたということね。
確かにそっちのほうが分かり易い。

>>609
強制移住の影響は諸葛亮が頑張って何とか出来ないものか…

まあ皆さんのレスを見て蜀が限界だったというのは分かった気がします。
関羽も于禁をあんな簡単に撃破しなかったら早めに退くつもりだったのかな。

613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 18:41:02 ID:CtCdWv6S0
>>608
陸遜が夷陵を制圧してんのが建安24年12月より前だってのは呉主権伝と陸遜伝を整合させれば推測できる
陸遜が夷陵辺りを制圧した時期に李異達が房陵、南郷も攻撃してて、その後の関羽捕縛が12月なんだから郭睦やケ輔の件は関羽捕縛に関する一連の流れの中だと見受けられるんだが
となるとこれは関羽死亡後に離反した孟達の後のイベントだと考えるのは難しい

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 18:56:14 ID:bzM+Vt8U0
>>613
それだけの広範囲を同時に制圧できる余力が陸遜にあったかな?
まず陸遜は真っ先に夷陵を制圧している。ここは重要度が桁違いだから。
その後関羽の敗北、翌年の孟達離反、と、劉備領荊州が崩れていくのと平行して、
益州からの増援がない(夷陵の守備を固めなくてもいい)のを見計らいつつ、
陸遜らの平定戦が行われていたんじゃないかな。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 19:27:00 ID:QsQv+na30
>>614
房陵を攻撃してるのは陸遜じゃなくて李異とか
しかも3000とかそんな人数
蜀の余力の無さが逆に浮き彫りになる状態じゃないかね

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:01:05 ID:bzM+Vt8U0
そうだね? 関羽が敗退すればそんなもんじゃない?
そもそも全部の郡ごとにそんな大兵力が置いてあるわけじゃないし。

617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:25:43 ID:QsQv+na30
>>616
史書の記述を信じるなら記述順が李異達の侵攻→陸遜の夷陵確保→関羽捕縛という事になる
陸遜独自の考えで夷陵制圧してたわけじゃなく孫権もちゃんと理解してこの時期動いてるんだろうさ

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 20:33:33 ID:bzM+Vt8U0
そう思うよ。

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 01:32:59 ID:21fHFC4M0
荊州西域占領作戦はどう読んだってorどう解釈したって関羽斬殺前だろ。

ここでの問題は関羽は公安を始めとする荊州侵攻を知りえたか否かと、
何時知ったかということと、何時信じたかということ。


後方と連絡が途絶えたということは前線にいる者にとっては信じがたいことなので、
「知りえた」については間違いなく知りうる機会はあったということ。
つまりは呉の侵攻後間もなくということだろう。


それが「何時知ったか」という具体的な話になると・・・これは解らない。
ただ「何時信じた」となると、趙厳伝を信じるならば、漢水北岸撤退後になる。

「何時知ったか」というこの辺の時系列ははっきりしない上に、一つの記述を丸々鵜呑みするわけにはいかないが・・・恐らくは北岸撤退前後の時間となるはず。
(そうでないと関羽が後方が陥落したかもしれないのに暢気に前方ばかり見る戦闘馬鹿になってしまう・・・そこまで関羽は馬鹿ではないと思う)

結局、公安以南と西域作戦は同時侵攻と見做さないと、呉からすると非常に非合理的であるわけで、
(関羽に西方がまだ陥落してないと知らせることになり、逃げ道を作り、つまりは西方に守りを固める時間猶予を与えることになる)
西域作戦を関羽斬殺後、孟達離反後とみなすはちょと証拠に欠ける。

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 18:06:56 ID:dVuhIY/r0
荊州問題で孫呉との有効を保ち続けるのは無理。
かくなる上は、関羽軍が速攻で曹仁を切って襄陽を奪い、援軍もまとめて撃破する以外にない。
蜀漢から荊州を奪うより対魏戦で協力した方が得だと思わせ、孫呉の矛先を合肥に向けさせるしかない。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:39:28 ID:IdC89D9L0
>蜀漢から荊州を奪うより対魏戦で協力した方が得だと思わせ、
>孫呉の矛先を合肥に向けさせるしかない。
ここは同意だが、
曹仁を倒せたらとか、呂蒙が攻めてこなかったらとかより、
関羽か劉備が来るまで江陵城が落ちなかったら、
落とさせないだけの人材がいたら、の方が現実的じゃないか?
江陵城は曹仁と朱然が篭城戦で実績を残した城だし、
一番成算があるifだと思うが。

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:57:05 ID:15f1U1pV0
>>620
孫権は張遼恐怖症だから無理ぽ。
せめて史実より早く曹操がポックリ逝ってくれればなんとかなったかもね。

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 22:22:01 ID:gKaPWRs00
結論

誰が荊州司令官であろうとも
頑なに専守防衛に徹する

もし対魏北上する場合は対呉の備えを将兵ともに万全して
「呉が攻めてこないだろう」ではなく
「呉が攻めてくるかもしれない」という前提で北上する

北上する条件として
魏内の異変に乗じるなど正面作戦を避け漢水以南をもって善しとして決して欲張り過ぎない
もし呉に怪しい動きがあれば即座に北上を中止して領土保全を優先する

益州からの後詰は漢中を放棄しない限り端から無いものと悲観的計算に基づいてすべての行動を図ること



624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 01:10:57 ID:PObonQ3r0
荊州を返さない蜀漢に痺れを切らした孫呉が、
本気で曹魏と手を組んだらどうすんの?

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 02:38:11 ID:zzVEG3bE0
>>624
いや、だからそれで呉に江陵奪われてるんじゃん

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 04:12:55 ID:SUiIxIuz0
関羽が北上しなきゃ呉も迂闊に手を出せないだろ
数年待てば、曹操も呂蒙もくたばるし
荊州で膠着している間に劉備・馬超らが北伐して涼州を獲って長安を窺う


627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 08:43:05 ID:H6AEnlPX0
before

夏侯淵ブッタ斬ったwwwwwwww
漢中取ったwwwww
曹操負け惜しみ吐いてトンズラwwザマーwwwww
俺今日から漢中王イヤッホウゥゥーーー!!
荊州と漢中からそれぞれ涼州擁州と荊北狙うぜww


after
漢中鶏肋wwwマジ何も残ってねwwww
ちょwwww攻勢も出れないし漢中王って名乗ったから撤退もできないwwww
関羽タンまじガンがってwwwwwおねよろwwww
あwww孫権攻めて北おkwwwwww
人生オワタ\(^o^)/


628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 08:57:52 ID:DqmR1RpM0
あんた笑いのセンス全然無いね

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 13:18:49 ID:PObonQ3r0
>>622
呂蒙か陸遜を送ればいいだろ。孫権が前線に出るから負けるわけで。

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 16:36:04 ID:6AEoTT3f0
実際当時の劉備の状況考えたらあれがベストっぽいんだよな・・・

ビホウとかは結果的に降伏したから叩かれまくってるけど徐州時代からの古参だしな。
信頼できる人間をそれ以上荊州に回す余裕は到底なさそうだし

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 23:22:45 ID:Jrb06GP+0
確かに何で合肥のときだと孫権だの諸葛瑾だのが出張ってくるんだろう
こういうときこそ呂蒙や陸遜頑張ればいいのに

632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 23:53:25 ID:H6AEnlPX0
陸遜はデヴューが遅いのでおいておくとして、呂蒙は合肥に参加してるよ。
呂蒙はその戦役の経験から合肥(長江北岸の揚州及び徐州攻めの難攻を孫権に説いてる)をほとんど放置するという自説に辿り着いてる。

諸葛勤はどう解釈しても名将。
呂蒙のような戦術に長けた将という意味じゃなくて魯粛のような名将という意味ね。

ようは、孫権も馬鹿じゃないけど、孫権が合肥の担当にならざるをえなかった(主力はあくまで呉郡近辺)事情があるということね。
晋が荊州に軍の主力を割いてどうなったかくらいは孫権は知っていたということ。


633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:04:30 ID:RofOMZy/0
>>632
デヴュー早いぞ
山越戦ばっかりだけど

それに曲がりなりにも孫策の娘を娶ってるわけで名前が無いわけでもない

634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:06:32 ID:3ZKJRyte0
諸葛亮や諸葛謹と比べられて犬と言われた諸葛均も、
部将としては有能で部下に慕われていたようだし、
諸葛家は有能なのが多いな。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:10:04 ID:3ZKJRyte0
諸葛均じゃなくて諸葛誕な。
曹操並みに有能な親族に恵まれているのが不思議。
諸葛一族が集まれば蜀ぐらいは取れたんじゃね?

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 02:16:14 ID:wcyHKlIGO
アタマがいない。
所詮は(超有能)補佐官の一族。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 04:48:40 ID:3ZKJRyte0
それは諸葛亮か諸葛謹で代用できる。
いざとなったら操縦し易いのを御輿に担げばいい。

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 14:59:38 ID:wcyHKlIGO
>>637
二人とも有能な宰相ではあるが君主の器じゃない。

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 17:25:42 ID:WU+suVqO0
そこで劉禅ですよ

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 18:13:11 ID:vXG4NBjR0
ダメだったじゃねーかw

641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 10:22:33 ID:2BY+FIyT0
じゃあ劉表で

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 02:36:27 ID:soAthf2A0
劉禅は蜀が滅びる最晩年まで、反乱も大して起こらなかったから、
それほど無能ではないという説もあるな。
弱小国だし、次々と離反者がでてもおかしくないはず。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 08:06:32 ID:p588vvyo0
無能とはいわないんじゃない?凡庸なだけで。

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 18:23:52 ID:vQUXAINy0
魏にしても呉にしても、政権が不安定になると景気付けの改元と恩赦をやたら出すものだが、
劉禅在位時の蜀ではあまり行われなかったという。

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 22:03:56 ID:xKlZbjxi0
>>644
ただ単に、改元すんのメンドかったんじゃね?

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 23:01:00 ID:QQCtwfSU0
>>644
いや、滅亡直前の頃は改元、恩赦の大盤振る舞いだが

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 00:09:17 ID:T8qdRpIy0
>>646
在位中何回?

648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 00:53:25 ID:ZoAQWmhw0
>>647
改元はともかく大赦がかなり乱発されてる
改元の方は7年に一遍くらいかな
まあ普通のペースと言って差し障り無いと思う
だが大赦の方が2、3年に1回くらいのペース
諸葛亮存命の10年ではわずか1回
なのに費イが実権握った辺りから怪しくなってくる

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 17:50:34 ID:+qyD7tBi0
劉禅の統治期間が40年。諸葛亮体制10年に大赦1回。
その後が2、3年に1回のペースなら11回〜15回。
40年に渡った治世としては多いのか少ないのかよく分からない。
ただ魏呉と比べて反乱らしい反乱がないのが救いか。

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 19:04:03 ID:gnF+b1SF0
>>649
2〜3年に1回、犯罪者が許される
孫皓末期の10年8回に較べればマシだが
10年3〜5回を40年てのは非常に悪い

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/09(日) 16:52:26 ID:r0hflxBS0
もしセガールが荊州を守っていたらなあ

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 13:15:28 ID:CidkuDu80
沈黙の単刀会

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 13:48:39 ID:CqDMMuXq0
そもそも蜀が中国を統一できる可能性はあったのか

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:10:24 ID:YRo8feMz0
さぁね。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:28:56 ID:NyE//bXC0
漢の劉邦とて項羽に戦いを仕掛ける頃中国を統一できる可能性があったかというと
これもさあねだろうな

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 11:59:00 ID:ow1YrA6Y0
さあね以上に冷たい反応が返ったかもしれんね
まあ、歴史にイフはないとはいえ、ついつい考えちゃうな

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 12:16:31 ID:Y/sqsPPv0
それに対する積極性を捨てない限り、可能性はある。
ゼロではないというだけだけど。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 13:53:23 ID:cDmNGXnq0
後漢〜三国時代は戦乱が長引きすぎたよ。
陳勝・呉広の乱から楚漢戦争集結まではたった8年。
劉封だって、相手が腰を据えて足元を固める前に
電撃的に勝負を決めたから勝てたんだし。
劉備は最初、天下への野心はなかったかもしれないけど、もたもたしすぎた。
208年以降、曹操が満を持して統一事業に乗り出してからでは遅い。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 14:33:56 ID:nniJ3Mhz0
どっかに拠点構えても強制イベント的に追い散らされてばっかだったからな
ようやく落ち着いて事に当たれたのが赤壁後なんだからしょうがない

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 15:49:28 ID:ukuZRfldO
そのあたり宮城谷さんは上手く表現してたな。
「劉備は、およそ守るという事を知らない」
だったか。無頓着きわまれりだな。

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 21:19:16 ID:5yDLDoFz0
>>658
>漢〜三国時代は戦乱が長引きすぎたよ。

そんな事いったら、次の南北朝時代はどうなるんだよww
約300年戦乱だぜ

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 21:24:38 ID:Uj6gyQM00
いや、戦乱のない時代のほうが少ないからw
もしかして漢一統で戦乱なくなったとか思ってる?

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 18:58:38 ID:tBiELg9o0
字 (差分; 履歴) . . (-69) . . Hoistsail (会話 | 投稿記録) (「優先」順序はないっすよ。もしそうなら「諸葛武侯」以外呼んじゃいけないことになりますな。)

呼んじゃいけないなんて誰も言ってない。無礼だと言ってるのだ。新聞で「福田総理」と書いて「福田康夫」と書かないのと同じだ。

664 :663:2008/03/16(日) 18:59:56 ID:tBiELg9o0
スマソ、誤爆

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 23:49:18 ID:Jdo4sVjH0
>>600
簡単に言うと第一に孟達の援護。
第二に劉備からの新しい指令を伝達すること。
孟達はシキから山麓越えで房稜を戦略的な奇襲かつ戦術的強襲で
落としているから補給線、連絡線の維持に問題がある
かつこの辺りでは魏側には上庸太守の申耽、南郷太守の傅方、
彼らをバックアップする荊刺史の胡脩がいるため孟達単独で作
戦を継続させると彼を見捨てるだけになってしまう
作戦的には上流の漢水を劉封が下ってきて上庸、房稜への道を
塞いで傅方,胡脩を防ぐ一方で申耽を孤立させると言うもの
劉封の派遣には非常に大きな意味があるわけです
そして更に劉・孟に対処しようとする胡脩,傅方に対しては下流
にいる関羽の大兵力がバックから攻め、上庸を降伏させた劉封,
孟達軍と前後挟み撃ちの雪隠詰めとすると言う構図になるわけ
この辺りの劉備側の作戦は非常に構想力の大きなもので曹操に
して見ればいきなりこれほどの作戦を打ってくる劉備陣営には
容易ならない危機感を抱いたと思うよ

666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 01:56:59 ID:kl6tzdrA0
>>665
 法正のアイデアかな。彼の死こそ、劉備勢力の衰退を招いた気がする。

667 :665:2008/03/23(日) 06:50:10 ID:tRGxI4IY0
>>666
かも知れないしそうでないかも知れない
ただ、この重層的で相互に関連づけられた非常に特徴ある
作戦の組み立ては諸葛亮が一貫して用い続けているやり方
ではある
で、諸葛亮だけがこういう作戦を組めたのか?となると、
この直前の漢中戦で劉備が上手く運用しているし、これに
連動する形で関羽も枝作戦で似た作戦を運用している
諸葛亮や法正が参加した後の劉備陣営は少なくとも諸葛亮、
法正、劉備、関羽はこの作戦の組方、戦略的な部分を充分
理解していたように見える
複数の方面軍指揮官と参謀が高いレベルで戦略を理解し、
柔軟に作戦を組む応用力を身に付けていなければこの時の
成功(関羽敗死直前まで)は有りえなかったと思う

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 00:16:43 ID:RWKmETKM0
少し前まで流浪の泡沫(と言うほど無名でもなかったようだが)1勢力の
取れる戦略じゃないよな
曹操直卒軍との漢中攻防〜孟達房稜へ〜関羽北上あたりは神がかり的

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/24(月) 12:20:57 ID:9JFf/whp0
しかし結果的には

漢中=鶏肋
新城=地政学上荊北を所有しないと長期維持は無理
北上=失敗
荊南喪失=中原進出不可能

なわけで、

まさに人生万事塞翁が馬。


670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/25(火) 20:10:28 ID:AwPGyMWR0
漏れが劉備だったら関羽に荊州は任せない。結果論ではなくてだ。
赤壁の戦いで華容道にて伏兵を以って曹操を討つ筈が、事もあろうに見逃した件は許されざる行為だ。
孔明が関羽の首を刎ねる事を主張したのは至極当然の成り行きで、関羽には情状酌量の余地は無い。
つまり関羽は情に流される性格で、一州を任せられる非情さが無いのである。

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/26(水) 11:40:44 ID:9zDUFLdK0
演技である

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/29(土) 01:38:17 ID:G9DLDBEz0
釣りには釣られないクマー

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 01:30:23 ID:35FnYozcO
あげて

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