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魏の名将・良将を語るスレ

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 16:05:57 ID:JjiuIo5i0
関連スレ
魏の名将・良将を語るスレ 其の十
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198138260/

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 16:07:22 ID:JjiuIo5i0
蜀や呉や両晋のスレッドがあって
魏が無いのはおかしいと思い、立ててしまいました。
まだ先の話ですが、三国志板のスレッドが沈んだ際の避難所としても使いましょう

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 16:08:49 ID:q1Ou5qt70
>>1 Good job!

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 16:43:00 ID:RY+4xlXm0
三戦板は一定の期間が過ぎたら、スレが落ちちゃう仕様だからな。
こういう系のスレの生存は厳しい。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 17:58:19 ID:gwPcXF1K0
本スレ
魏の名将・良将を語るスレ 其の十
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198138260/l50

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 21:14:52 ID:DELBZN800
ではまず張喜について

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 17:39:02 ID:oqO9Hx1Z0
司空になってた人か。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:50:13 ID:whPW3KYK0
張喜

193年に司空に就任、196年に司空を辞任

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 02:49:16 ID:E6Yw7GGzO
裴茂は名将
のような気がする

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 21:32:01 ID:eiuOPRBZO
張遼と臧覇って どちらが格上ですか?
時期によって違う?

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 23:10:04 ID:Dwpalp3F0
元々臧覇は武官上がりではないので難しいけど、張遼が上…かなあ?
袁紹との対陣時では臧覇は琅邪相。張遼は裨将軍。同じ五品官ではあるけどここでは相が上かな?
陳蘭討伐の際に退却を決断しようとしたのは張遼で、それを止めたのが臧覇という形になっている。
二人とも陳蘭討伐後に節を与えられている。
曹丕が王位に就いたとき張遼は前将軍(死後加官でなければ)、臧覇は元の職に加えて鎮東将軍。
これは漢の官制だろうから四方将軍が上のはず。
帝位につくと二人とも郷侯から侯へ格上げされた。
張遼は曹丕が帝位に就いたとき2600戸、臧覇は明帝が即位したとき「500戸加えられて合わせて3500戸」。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 23:23:45 ID:UVf/ZrM10
>>11
曹丕が王になった頃だと明らかに臧覇が格上
この時の四鎮将軍都督州軍事って曹真とかだよ
張遼たちの四方将軍はおそらく魏の官

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 23:45:13 ID:Dwpalp3F0
曹真は見落としていたが、その辺俺も少し混乱してるんだ。
張遼の前将軍は魏王の官でいいだろうけど、その前に征東将軍になってる。
これを漢の官位としても、その後魏の官とはいえ前将軍に「格下げ」ということはあるのだろうか?
後漢の官制表だと驃騎・車騎の下に四方がある。と書いてあって、鎮征のことは書いてない。
後漢の官制を踏襲しただろう蜀漢の趙雲や魏延の例を見ても、
鎮征が四方の上に来たのは魏帝国成立後じゃないかな? …と、思うんだが。
それから、わざわざ夏侯惇が前将軍になった逸話が特筆されるということは、
鎮・征らの諸将が漢の将軍位ってことはあるのだろうか、と思う。
でも自信はない。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 00:45:42 ID:U1ZnHhc40
これは思いつきなんだが、
曹丕が魏王になって以降って、完全に禅譲モードという感じじゃないかな
どういうことかと言うと、禅譲して漢の官と魏の官が融合するのを前提にしている感じ

つまり、
漢の四方将軍・・・空位
漢の四鎮将軍・・・曹真や臧覇
魏の四方将軍・・・張遼たち
という感じだったのが禅譲により漢の四方+魏の四方となるのを見越して、漢の四方を空けた上で魏の四方に武人のトップクラスを充てた
漢の四鎮将軍は、漢の四方が空位なので実質この時点の将軍のトップ集団
だから禅譲後は武人より格上になる親族を充てた

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 00:55:07 ID:QAkK190x0
それはつまり、四鎮と四方の地位が逆転するのを見越しての配置だと?
そういうのはちょっとないんじゃないかなあ。
いや親族や地方を鎮撫した臧覇が武官の張遼らより上というのはもっともらしくて、
ていうかさっきまでそうだと思ってた俺。
そのつもりで臧覇伝読み直したらアレ? となったんだけど。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 01:10:24 ID:U1ZnHhc40
>>15
地位の逆転は結果かも

曹氏親族は禅譲後は高位になるが、漢においては諸侯の親族に過ぎない(形式上は)
都督であるので漢の将軍位を与えるが、漢のうちはあまり高い位にはできないため、四鎮将軍になった
張遼ら曹操配下の武人は、魏においては親族を除けばトップクラスの地位
このとき親族は漢の四鎮将軍になっているから、張遼たちが魏のトップ集団である四方将軍になった
しかし禅譲後、四鎮将軍=曹氏親族と四方将軍=武人のどっちが格上かといえば、もちろん曹氏親族
このとき将軍位をまた入れ替えるという煩を避けるため、敢えて四鎮等の将軍の地位を上昇させることで序列を保った

張遼が征東将軍になったころは、まだ四征・四鎮等の地位がさほど高くなかったから、曹丕が王になって以降の四鎮等とは同列に論じられないのかもしれない

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 02:59:44 ID:GPSZBc4m0
こんな楽しい討論にするのなら互いにトリ付けて欲しい

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 17:41:53 ID:mf2XaG0j0
そういえば張遼は、満寵と並べられてる事があった気がするけど
こっちもあまりそぐわない気がする。

臧覇って満寵や郭淮と並べられる方が相応しいような

19 :15:2008/01/18(金) 19:42:40 ID:PF+yD4bo0
あ、やっと理解した。漢の高位の将軍職である四方将軍と、魏王の四方将軍を同格に考えたからおかしくなったってことね。
漢の四鎮は群雄の劉表、張魯、劉備、韓遂などに与えられた高位の将軍職(漢の四方はさらに上で車騎驃騎のすぐ下)
魏は一郡規模の国だから、建前上鎮征のような地方軍を持つはずがなく、四方将軍は自然に中軍の将のトップとなる。
漢帝国の四鎮将軍は小さな魏(王)の四方将軍より格上とすれば、
魏王曹丕の時代での四鎮(曹真 臧覇) > 四方(張遼徐晃張コウ朱霊)の序列が成立する。
その後魏王朝の成立に伴い、征・鎮・四方・雑号の序列が定まると、
自然にこれまでの序列が保たれる、か。今出てる問題は解決するね。すっきりした。ありがとう。
でもこのために将軍位の序列を変えたのかなあ? ちょっと聞いたことのない類の話だけど。
この辺、ちゃんと論じてる人が居てもよさそうだ。
とりあえず後漢書の将軍位の序列から当たってみるかなー

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/18(金) 19:53:54 ID:PF+yD4bo0
>>18
列伝は活躍の年代で纏められることが多いから、
魏書十八は武を持って活躍した人物の列伝とは言っても、
李典のような豪族、地方を鎮守した李通臧覇呂虔文聘、ずば抜けた武勇を持った典韋許チョ
忠義に殉じたホウ徳、将ではなく忠烈で名を残した閻温ホウイクと色んな人間がいるね。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 14:20:23 ID:HcTOLmQ70
>>16
だいたいの主旨は賛同できるけど、四征の地位が低いってのは誤解だよ。
夏侯淵が征西、曹仁が征南になってる。張遼はこの段階で曹氏一門に匹敵してる。
それが曹丕の時代には曹仁が魏の車騎将軍、曹真や曹休が魏の四鎮に上がって張遼を突き放し、
朱霊や徐晃が四方に上がって張遼に肩を並べてる。
漢の四征から魏の四方へが左遷でないとしても、相対的な地位は低下してると言わざるをえない。
曹氏優遇の結果なのか、張遼に失点があったかは分からないけどね。
失点があったとすれば関羽北上のとき荊州救援に出遅れたということなんだろうか。
夏侯惇の動きや温恢伝の記録を見るとそうとは思えないけど。
征東のときは夏侯淵も曹仁も漢朝から見れば外様に過ぎなかったんで、
やっぱり曹丕の代で曹氏一門が優遇された結果だと見た方がよさそう。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 18:45:07 ID:Ndu5vbne0
>>21
>夏侯淵が征西、曹仁が征南になってる。張遼はこの段階で曹氏一門に匹敵
この時期の夏侯惇の漢の官位がわからんのだよね。伏波将軍のままではないと思うんだが。

そのちょっと後、曹操の最晩年になって夏侯惇・于禁・楽進が魏の四方将軍だから、
やはりこの辺まで体裁上は親族と外様武官は同格だったことになる(実質は大きな差があっただろうけど)
その後、夏侯惇は魏王曹丕の時期に大将軍だから、やはりこの時点で親族が名実共に重用された
ことになる。魏王位はともかく、漢朝での実権は世襲ではないから、曹操死去の前後から
禅譲の計画は急がれていたんだろうなあ。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 21:01:51 ID:KOuIjKNe0
>>22
よくよく考えてみたら、曹仁や夏侯淵が「行」のつかない正規の四征将軍になるのはけっこう遅く、それまでは「行」○○将軍ばかりで正規の将軍になってないんだよな
つまり、張遼や徐晃たちは、官位の面では曹氏一門に後から来たのに追い越されてるんだ
これも曹操が権力を強め、簒奪に近づいていくのを示しているんだな

伏波将軍は馬援が就いた由緒ある位だし、平時であれば河南尹はエリートの地位
夏侯惇は前将軍になるまで伏波将軍だと思うけど、これはかなり高いステータスだと思うよ

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 13:00:49 ID:Q9sQ34f+0
お気に入りいますか?
http://359s.net/trinity/wei/index.html

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 16:51:52 ID:j6sXaFzg0
将軍位に「行」が付いてる場合は、○○将軍代行みたいな認識で良いの?

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 18:34:49 ID:ZTFed6OR0
まあ大体そんな感じなんだけど、語の使い方は複数あるみたいだ。

一つは曹仁みたいに、「身分はあんまり高くないけど能力があるから、
正規の将軍には任命しないけど、それと同じくらい権限と責任を持たせるよ」というパターン。
もう一つは、官職を勝手に発行してる人が、あとで朝廷の認識と辻褄を合わせるために、
「あれは臨時措置として将軍の仕事を代行しただけですよ」とアピールするパターン。
孫策が黄祖を追放したときの上表で、部下を行○○校尉と言ってたりするのが一例。

ほかにもパターンはあると思うけど、ぱっと思いつくのはこの二つかな。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 23:26:44 ID:Vhh3UrI80
>>26
どうもありがと。戦時階級みたいなもんか

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 00:29:13 ID:C2Emp2cs0
しんりょう君

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 01:19:12 ID:YEZkOCxb0
臧覇の出身
泰山郡華県って、続漢書郡国志に載ってないのな
でも漢書郡国志には泰山郡に華県がある
晋書郡国志には瑯邪国に華県がある

・・・なんぞこれ

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 16:07:40 ID:0AfLxrXO0
華県って、長安の近くじゃなかったっけ?
華山の近くの。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 01:17:00 ID:9MIczvye0
探した探した。
琅邪王劉京伝の冒頭に、泰山郡等から六県を以って琅邪国とするという記述があった。
後漢書の志には載ってない…かな?
後漢末までにまた配置換えがあったのかもしれない

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 01:17:49 ID:9MIczvye0
あ、ミス。新たに琅邪に属した六県の一つに華県の名がある

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 06:15:32 ID:Cdr/JL/d0
その辺の事情は後漢書集解にも書かれてるな。
郭頒の世語に曹嵩が殺されたのは泰山の華とあり、
延煕(延熹の間違い)七年に建てられた孔宙碑に華県を載っているので、
漢末に再び設立されたのだろうと王先謙は言ってる。
三国志集解の引用だとちょっと文言が違ってるが出所が分からない。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 08:55:01 ID:cDmnDeq+O
三国志板の方のスレは盛り上がってるな
しかし論議の中心は変わり映えしない面子だが

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 09:02:29 ID:mGXu/XTq0
しょうがないんじゃね?
今更眼を見張るような新しいネタが出現するわけもないし。
基本的にはループネタばっかりだよ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 23:27:03 ID:yutNE9pI0
楽進のことはこのスレでもあんまり語られてないよな。
本伝の記述が寂しいのは否めないが、他の伝と合わせて読むと
分かってくる部分もありそうだが、その辺はどうなんだろ。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 00:36:02 ID:G8WlXdQc0
楽進伝に載ってない活躍って言うと青泥で関羽を破ったことと他になんかあったっけ

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 02:32:38 ID:T4fqZvan0
あー、いやそういう意味じゃなくってさ。
本伝だとどこそこの戦いに従軍したとか、そういうことしか書いてなくて、
その戦いのなかで楽進がいかに重要な任務を担ってたのか、みたいなのが見えてこない。
たとえば官渡の戦いの直前で獲嘉を攻めてるが、これは官渡の戦いにどう影響したかとか
そういうのが分かるんじゃないかなと思ってね。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 16:23:44 ID:oVsa5Xmd0
俺が感じてるところといえば、楽進って当人の伝どころか他のどの記事をみても
楽進の主張というか言葉がないってとこ
これだけ古参で功績多大にも関わらず、ちょっと異様な感じがする

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 17:40:55 ID:T4fqZvan0
やっぱり楽進の出自が関係してるんかなと思う。
張遼や徐晃は他陣営からまとまった部隊をつれてきた中途採用組だが、
楽進と于禁は兵卒上がりで、士大夫層の受けがよくなかったんじゃないか、とか。
あと楽進の出身地って東郡なんだよな。
たぶん曹操が東郡太守だったころに現地採用されたんだろうと思う。
もしかしたら陳宮の離反となにか関係があるかもしれないね。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 18:25:52 ID:PLso1RSG0
韓浩が屯田以外だと夏侯惇見殺し発言くらいしか記述が残ってないけれど
曹操の「韓浩居ないと俺が軍を動かせない」発言とかから優秀な部隊指揮官としての側面が垣間見えるように
楽進もまた同様に特に何かを提言したりするようなビジョンやグランドデザイン能力は無いものの
戦場での部隊統率や曹操の指揮下での有能な実務者、実行者だったんではないかと
残る少ない記述を見ると荊州入り以前は常に曹操に従軍したという風に書かれているしな

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